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王太子の結婚 05

 結婚式の朝はよく晴れていた。
 少し肌寒いが、日が上がればもう少し暖かくなるだろう。

 早朝目覚めて一人で庭を散歩してきたアンは、家族と一緒に朝食のテーブルを囲んだ。
「しっかり食べておくのよ。これから準備に何時間もかかるし、お化粧をしたら何も食べられませんからね」
「はい」
 アンは母の忠告に返事をしたものの、食欲は全くわいてこなかった。

 軽いトーストと一緒に暖かい料理が運ばれてきた。
 目の前に置かれた皿にはベンシングトン侯爵家の紋章に使われているオールドローズが一輪描かれている。
 日頃は当たり前すぎて気にもならなかったその花に、アンはふと目を留めた。
 
 新聞を読んでいたアンの父が、窓の外を見てひとりごとのように言った。
「いい結婚式日和になりそうだ」 
 そのとたん、目の前のオールドローズが滲(にじ)んだ。
 アンの前に普段用のこの皿が出されるのはこれが最後だ。
 またここで食事をすることがあっても、その時に出てくるのは金縁でもっと沢山の薔薇が描かれた来客用の皿になる。

 小さい頃は自分には出してもらえない沢山の薔薇が咲く食器に憧れたのに、何故か今のアンはそれに全く魅力を感じなかった。

 ずっと自分を育て守ってくれたこの家を、今日出ていくのだ。
 そう実感したアンは毎朝の手に馴染んだ普段用のカトラリーに、これも最後と思って手を伸ばした。
 
 それからのアンは感慨に浸る暇もなく過ごすことになった。
 朝食が終わるとすぐに、ヘアメイクアーティストが助手を連れてやってきた。
 まずアンは結い上げる準備で髪にロッドを巻かれ、顔にかかる髪がなくなったところでデコルテまでのパックをされた。それが終わったら今度はまぶたの上にまた別の温パックをうけ、更に目の下にひきしめ効果のあるジェルを塗られる。
 この調子で、アン自身には違いの分からない準備が何段階も続き、それからやっとベースメイクが開始された。

 目を閉じたアンの耳にざわめきが届いたのは、準備を始めてから二時間も経ったころだろうか。
「アン、おめでとう!」
「あっ、ドレスがある!」
 アンのまぶたがぴくりとしたが、その上に何色目かのシャドウを重ねている女性が注意した。
「レディ・アン、まだ目を閉じていて下さい」
 それからもう一方のまぶたを塗られ、やっと目を開けられるようになったアンは、まだ仕上げが残る自分の顔と、いとこ姉妹とその娘たちを鏡越しに見た。
「ハリエット、マーガレット、来てくれてありがとう。ルビー、グレース、今日はよろしくね」
 ベースメイクの時のお面のような顔を見られなくて良かった、と思いながらアンは言った。
「お嬢様方も、もう少ししたら髪を整えさせて頂きます。その後で着替えをお願いします」
 お嬢様と呼ばれた二人が急にぴんと背を伸ばし、澄まし顔になった。
 この二人がフラワーガールを頼みに来た幼い当時の真面目な表情を思い出してアンはこっそり微笑んだ。
 
 マーガレットはもっと昔の、別の少女のことを懐かしんでいた。
「覚えてる? 一緒にお姫様ごっこをしてた時、アンがいつも頭と腰にハンカチを結んで侍女役だったのを。お姫様になりたくないのって言っていたアンが本物のお姫様になるなんてねえ」
「そうじゃないでしょう? いつもマーガレットがお姫様役をやりたがったから、優しいアンが譲ってくれてたんじゃないの」
 しみじみとした口調の妹をたしなめたのは、ごっこ遊びの時は腰に剣を差し木馬にまたがって王子様になったり、ピアノのカバーで魔女になったりと忙しかった姉のハリエットだった。

 アンは念入りに口紅を塗られているところだったので思い出話に参加できなかった。
 アンは本当に侍女役を演じるのが好きで、マーガレットの髪をとかしてリボンを編み込んだりするのを楽しんでいたのだが。
 アンが喋れないのに気付かないでマーガレットが訊いた。
「ねえ、アン。緊張してるの?」
 ハリエットが横から言った。
「本番はまだまだ先じゃない。緊張するのは早いわよ」
「★そんなことないわ! 私は朝起きた時からずっと緊張してるわよ!」
 そう言って部屋の入り口に賑やかに現れたのは、花嫁の付き添いを引き受けたアンの親友モリーンだった。
 ハリエット達もよく知るアンの幼馴染で、彼女がブライズメイドの代表マトロン・オブ・オナーだ。入堂の時には花嫁を先導することにもなっていた。彼女の息子、五歳になるローレンスもページボーイを引き受けている。
「モリーン、今日はうちの娘たちをよろしくね。息子君は?」
「クレイに任せてきたけど、自分のこと以上に心配よ。転んだりしたらどうしよう!」
「大丈夫よ。しっかりしてるもの」
「そんなことないわよ、先週もね……」
 子供の話で盛り上がる三人の声を聞きながら、アンの胸にゆっくりと幸せが満ちてきた。

 この三人はアンの長い療養の間もずっと傍にいてくれた、数少ない本当の友人だ。
 でもアンの心のどこかに、彼女たちに女性として後ろに置いていかれたような寂しさがあったことは否めない。
 皆からはずいぶん遅れたが、やっと今日からアンも同じ道を歩き出す。
 
 いつの間にか三人の話題は、アンのウェディングドレスへと移っていた。
「アンは絶対こういうクラシカルなスタイルが似合うと思ってた」
「早く着たところが見たい。この衿あきもすごくアンらしいと思う」
「そうでしょう。もう一つのデザインも素敵だったけど、やっぱりアンにはこっちだったのよね」
 ドレス選びに立ちあったモリーンが手柄を誇る声を聞きながら、アンは思った。
 
 きっとこれからも結婚生活や育児のことでこの三人には沢山のアドバイスを貰うことになるだろう。
 道の先に頼もしい友人達がいると思えば、後ろを追いかけるのも決して悪くはない。

 目の前の鏡に映る、幸せそうな微笑を浮かべた自分もアンに同意してくれた。
 

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