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王太子の結婚 11

 午餐会はまだその場にいない王太子夫妻の結婚を祝しての乾杯からはじまった。
 
 キャットの席は年齢の近い男女を集めたテーブルにあったので、近くにいるカルロやフィレンザ、それに驚いたことにリックも含めての和やかな会話の輪ができた。
 さっきまで口をきかなかったくせに、こういう場所で無作法になれないのがリックのリックらしいところだよなぁと思ったキャットは急に笑いたくてたまらなくなったが、それこそ無作法なので必死にこらえた。
 
 サラダやチーズにテリーヌといった八種類の前菜に続く、焼いた海老や魚のポワレ、フルーツソースのかかったロースト肉や旬のキノコと煮込んだ濃い味わいのコンフィなど、メルシエ王国伝統の海のものと山のものをそれぞれ五種類ずつ揃えたメイン料理の途中で、バルコニーでの挨拶を終えた王太子夫妻とその家族が会場に姿を現した。

 皆は新婚の二人のために再び乾杯し、メルシエ王国の繁栄を祈って三たび乾杯した。

 アートが集まった人々に謝辞を述べた。
 スピーチはいつものように短かったが、アートは言葉よりも態度で、この結婚が義務ではなく愛によって交わされたものだと、その場にいる人々に雄弁に告げていた。
 隣に立つアンがそんなアートを誇らしげに見つめる様子がまた人々の微笑を誘った。
 それはずっと昔から婚礼の宴で繰り返されてきたのと同じ、いかにも新婚らしい姿だった。
 
 そしてとうとう。
 キャットは念願の恋人の姿を目にした。
 
 あんな意地悪な女性達の意見にひとつでも同意するのはしゃくだったが、確かにチップの儀礼服姿には一見の価値があった。
 四王子の中で軍服姿はチップだけだから目立つとはいえ、同じ会場にはもっとたくさんの勲章や飾りをつけた将軍達の姿もあった。それでもキャットの目にはチップの姿しか入らなかった。
 
 ブラックタイやダークスーツ姿なら見慣れている。それもチップにはよく似合う。
 けれど今日初めて、とうとう本物を目にした、肩章のついた紺の詰襟の上着に金色の飾緒をつけ、勲章を佩用したキャットの恋人は胸がどきどきするくらい格好良かった。
 
 前髪を上げて額を出すと、チップは普段よりも精悍な印象になった。
 階級を示す肩章は肩幅を広く見せ、右肩から胸にかかる飾緒と左胸の勲章が厚い胸板を強調する。
 サーベルを吊るすためのベルトで絞られているのは、抱きつく時に一番腕を回しやすい引き締まった腰だ。
 つまり軍服の、機能的な必要からはじまった装飾の全ては、それを着る人の男性的な魅力を強調するように配置されていた。もちろん訓練を重ね鍛えた体でなければ似合わないのは言うまでもない。
 これは決して女性の目を楽しませるためのデザインではなく、一種の示威活動として、男女を問わずまた敵味方を問わず、見る人に強く立派な軍隊であると思わせることが本来の目的だった。
 結果として女性達を悩ませることになったのは副作用のようなもので、本来意図されたものではなかった。

 キャットは、チップが予備役で今は軍務についていないことを内心で喜んでいた。でもこのチップの姿を見て、職業軍人に憧れる女性の気持ちはこういうものなのか、と少しだけ理解できてしまった。
 本人は現役だった時よりはずいぶん体がなまったと言っているが、充分鑑賞に堪えうる――という以上にどこかに飾ってずっと眺めていたいような姿だった。
 
 チップの席は広間に連なるいくつもの長テーブルの向こうだったが、キャットから姿が見える位置にあった。あの格好の時はさすがに真面目な顔をするんだ、とキャットは恋人の姿を眺めながら小さく微笑んだ。
 するとチップが一瞬片目をつぶった、ように見えた。
 
 まさかと思ったが、その後もキャットはチップとたびたび目が合い、恋人の関心が――いつもではないが、ほとんどいつも――自分に向けられているらしいことに気付いた。
 ちゃんとしてた方が格好いいのにと思いながらも、キャットはゆるむ頬を抑え切れなかった。
 
 ケーキにパイ、ムースにチョコレートと食感の違う甘味を取り揃えた午餐会のデザートの締めくくりは大きなウエディングケーキだった。
 伝統的に一段目は当日の招待客に振舞い、二段目は当日来られなかった友人や親戚に振舞い、三段目は最初の結婚記念日か第一子が生まれた時に夫婦で食べることになっている。今回は一段目と二段目がとても大きかったので、普通サイズの三段目だけがずいぶんこじんまりとして見えた。
 一部の人々は、この三段目が必要になるのは最初の結婚記念日よりも早いのではないかと密かな期待を抱きながら、それぞれに幸せのお裾分けの振舞いをうけた。その場では食べずに記念に持って帰る人も多かった。
 
 夜の晩餐会に招待されているゲスト達も、宮殿内に宿泊している賓客を除いていったん宮殿を出て、イブニングドレスとホワイトタイに着替えてからの再登殿となる。誰がどんな姿で現れるのか、晩餐会に招待されていない人々も夜のニュースを楽しみにしているはずだ。

 晩餐会には招かれていないカルロ達とキャットはホテルに戻って着替え、この国に住むカルロの友人達と少人数でカジュアルな食事をする予定になっていた。
 
 テーブルを離れた人々が開け放たれた扉に向かった。
 知り合いを見つけて立ち止まる人のために流れはあちこちで滞りながらも、人々が広間から散り始めた。
 
 キャットは、二ヶ月ぶりに晴れ晴れとした気分で大きく深呼吸した。
 
 キャットが心配したあれこれは全て取り越し苦労だった。
 フィレンザと二人で支度をして出かけるのは楽しかった。
 ドレスは地味すぎも派手すぎもせず、キャットが見た限りでは誰ともデザインが被っていなかったし、自分でも嬉しくなるくらい着心地がよく似合っていた。
 カルロはもう一人の妹のようにキャットを大切にし気にかけてくれて、危険な瞬間はひとつもなかった。
 報道陣もキャットを数多くいる招待客のうちのとるにたりない一人として扱い、キャットがキャットであることの問題は全く起こらなかった。
 知らない男性に腕を掴まれたのはカルロが助けてくれたし、リックまで心配してくれた。
 パウダールームでは、赤いドレスを着たウーマン・フライディがキャットの代わりに悪者をこらしめてくれた。
 
 これで隣にフライディがいれば最高なんだけど。
 
 そう思ったキャットは、不意に彫像になったように動きを止めた。
 

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