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王太子の結婚 12

「ロビン」
 世界でただ一人、キャットをそう呼ぶ人の声がした。
 
 何故なのかは分からないが、キャットは名前を呼ばれる前にもう、背後に誰がいるのか分かっていた。
 コロンが香るような分かりやすいサインがあったわけではない。
 人々の視線が自分の背後に向いているのに気付いたのも、その後だ。
 しかし、彼女が会いたいと思えば魔法のように現れる恋人の存在を、キャットは確かに肌で感じていた。
 
 キャットは嬉しくて飛びつきたい気持ちを抑えて、わざとゆっくり振り向いた。
 
「すごく素敵だよ、ロビン。今日は兄達のために来てくれてありがとう」
 正装姿のチップが、キャットの手を取って手袋の指先に口づけた。
 体を起こしたチップの胸で勲章がちりんと鳴った。
 
 キャットは自分の心臓が激しい音を立てるのに驚いた。頭までくらくらしていた。
 アルコールを飲んでから全力疾走したような気分だった。

 至近距離にいる恋人が、アルコールより揮発性の高い未知の魅力をふりまいてキャットを酔わせた。
 
 こんなに素敵な人が自分の恋人で、会えば必ず抱きしめてキスして数え切れないくらい愛してると言ってくれるなんて、何かの冗談じゃないかとまで思えてきた。
 いつもふざけすぎてキャットに溜息をつかせるのは、本当に目の前にいるこの人なのだろうか。

 この姿を見るのが初めてで良かった。
 もし先に見ていたら、このチップにふさわしい女性だと思われたいなんて大それた考えはとても持てなかっただろう。
 
 二時間前に彼をプールに突き落とす想像をして鬱憤を晴らしたことも忘れ、キャットは恋人の姿にただただ見とれた。
 
 チップがカルロ達にイタリア語で話しかけ三人だけで笑いあったが、キャットはチップの姿に目を奪われていたのでほとんど気にとめなかった。
 チップがまたキャットに視線を戻して、キャットの瞳を見つめた。
「車のところまで送らせて」
 キャットは頬を赤らめ、初めてのデートのように恥ずかしそうに了承の返事をした。
(しかしここで特筆すべきは、実際に二人が初めてデートした時には、キャットが自分の恋人を見てこんな風に頬を赤らめなかったという事実だろう)
 
 キャットは小さい頃に見たシンデレラの絵本で、ガラスの靴が合うまで誰もシンデレラがシンデレラだと気付かなかったことが不満だった。
 ガラスの靴なんかなくてもせめて王子様だけはシンデレラに気付くべきだったと思っていた。
 しかし今、キャットは自分を疑っていた。

 つないだ手に引かれながら、チップの髪が耳の後ろに綺麗に流してあるのを見つめてキャットは考えた。
 もし最初にこの姿を見て、その後であの島で会ったのだとしたら、二人が同じ人だとは気付かなかったかもしれない。
 これじゃ、まるで――――
 
「ロビン、どうしたの?」
 チップが、少し遅れるキャットを振り返って訊いてくれた。
 キャットはのぼせた顔で答えた。
「私……フライディに恋しちゃったみたいなの」
「身に余る光栄」
 チップが優雅に一礼した。
 キャットはもう膝から溶けて崩れそうだった。
 

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