遅れてきた人魚姫 13
「ベネディクト王子はヘテロセクシャルよ」
トリクシーが言った。
ルイーズは不思議そうにトリクシーを見つめた。いきなり不機嫌になったことをいぶかしんだのもあるが、表現に違和感をおぼえたからだ。
普通、ゲイの反義語にはストレートという言葉を使う。
ヘテロセクシャルという言葉は、対になるホモセクシャルという言葉に侮辱のニュアンスがあるため、人よりも動物に対して使うことが多い。
「ベネディクト王子とも会ったの?」
「ええ」
短い返事に目の前でシャッターを下ろされたような気分になって、ルイーズはつんとして言った。
「別にゴシップを聞こうとしたわけじゃないわよ。まさかさっきのあれで説明が終わりだなんて思わなかったから」
トリクシーはとたんに態度を改め、ルイーズの腕に手をかけた。
「ルイーズの言葉をそんな風に受け取ったことは一度もないから。……まだ言えないこともあるけど、それ以外のことはちゃんと説明するから聞いて」
ルイーズは、その言葉ひとつで機嫌を直すほど単純だと思われたくはなかった。が、トリクシーが自分には(相対的にみてあまり)嘘をつかないことも分かっていたので、トリクシーを許すことにした。
「じゃあ聞く」
トリクシーがにこりとした。
「ルイーズのそういうところが好きよ」
ルイーズはやっぱり甘かったかと思いながら、無言で片手を振って話を始めるように促した。
「二十年くらい前に、名付け親の葬儀があってメルシエに行ったの。その葬儀の日に私と母が住んでいたアジュアハウスが火事になって――覚えてる? そう、あの時――すぐに国に呼び戻されたのよ。
飛行場からそのまま病院に連れていかれたと思ったら母は煙を吸って入院しているし、家も大切にしていたものも焼失していて呆然としたわ。
しばらく伯母のところに預けられて王宮から学校と病院に通って、母が退院する時にやっと今のフラットに移ったの。……その時になってようやくメルシエに忘れ物をしたことが分かったのよ」
「忘れ物?」
ルイーズが聞いた。トリクシーは頷いた。
「そう。ばたばたしてたから記憶があいまいなところもあるんだけど、後から送ってもらった荷物の中にもなかったし、メルシエに忘れてきたのは間違いないの。
母には話したんだけど、火事の後始末や私のことで伯母たちにはずいぶん迷惑をかけていたから、もうあきらめなさいって」
トリクシーは送られてきた荷物を開ける時に、ひょっとしてあの少年がしるしの箱を入れてくれたのではないかとかすかな期待を抱いていたが、着替えの入ったスーツケースを全て空にしても箱は出てこなかった。
「大切なものだったんでしょう?」
同情をこめたルイーズの問いかけに、トリクシーは静かに答えた。
「高いものじゃないけど、私にとってはね」
確かに金銭的な価値のあるものではない。王位継承のしるしといっても、外見はただの白木の箱だ。火事に遭えば跡形もなく燃えてしまうようなものだ。
トリクシーは全てをルイーズに語っていなかった。
ルイーズもそれを察して、忘れ物が何であったかを聞かない。この気遣いがトリクシーにはありがたかった。
実際にはトリクシーの母は、ただあきらめるように言ったわけではなかった。
トリクシーの話を全て聞くとすすで汚れた箱を差し出してこう言ったのだ。
「これを持っていなさい」
それはトリクシーの母のもので、父が開けることのできなかった……母が煙を吸ってまで捜しに戻ったしるしの箱だった。
――こうしてトリクシーは、わずか八歳で誰にも言えない秘密を抱えた。
あの時の母が何を考えていたのか、トリクシーには今もって分からない。
ただの慣習だからどんなものでも箱さえあれば体裁が整うからいいと思ったのか。
どこの誰とも分からない少年にしるしの箱を渡してしまったトリクシーをかばおうとしたのか。
自分の姉とその夫だとはいえ国王夫妻にこれ以上の問題を持ち込みたくなかったのか。
火事の原因は漏電で母のせいではなかったが、歴史ある建物が焼失したことでそこに住んでいた母を責める声があったのか。
それとも、いつものように、ただトリクシーとの会話が面倒になったのか。
それから三年ほどして薬の過剰摂取で突然亡くなった母は、トリクシーに何も言い残さなかった。
「それで、その『忘れ物』がまだメルシエにあるって、どうして分かったの?」
トリクシーはずっと胸に収めたままの秘密を漏らさないよう、深く息を吸って奥へ押し込めてから話を続けた。
「二年くらい前にベネディクト王子が自然保護活動の視察にいらしたでしょう。あの時にメルシエ王宮の図書室では忘れ物や読みかけの本を動かしてはいけない決まりがあるとお聞きしたの。
私が帰国命令を聞いたのは図書室だったから、もしかしたら私の忘れ物もまだ図書室にあるんじゃないかと思ったのよ。もちろんない確率の方が高かったけど、火事でほとんど失くしたから子供の頃の思い出の品は貴重なの。去年ビアンカ王女の付添でメルシエに行った時も、本当は捜しにいきたかったのだけど時間がなくて。
でもあの時に偶然チャールズ王子のガールフレンドと知り合いになれたから、チャールズ王子にお願いして図書室に連れて行っていただけないかと思ったのよ」
ルイーズはなめらかに語るトリクシーをじっと見つめて言った。
「どうしてベネディクト王子じゃなくてチャールズ王子だったの?」
「――なぜなら私はベネディクト王子が大嫌いだからよっ!」
いきなりトリクシーが叫んだので、ルイーズは怯えたように身を引いた。
Copyright © P Is for Page, All Rights Reserved. 転載・配布・改変・剽窃・盗用禁止