夜のカフェで(遅れてきた人魚姫 後日譚)
「本当に来るつもりなのかしら」
トリクシーはオーブンの扉を閉めながらひとりごとを言った。
オーブンに入れられたのは、瀕死の状態だった解凍肉だ。
焼き時を外して肉汁が抜けた肉だが、捨てるのももったいないので赤ワインに漬けて塩とハーブとオリーブオイルをまぶしてあった。足りない旨味はこれから作るソースで補うつもりだ。
王宮で出せるような料理ではないが、天候によって船の便が途絶えることも多かったチャンシリー群島では食材を無駄にしない工夫が発達しているのだ。
ソースに使う材料を用意しながらトリクシーは潮見の塔へ来たベンのセクシーな……否、やつれた姿を思い出し、前夜の彼がヘリで夜明かししたことまでも思い出した。
これでまた夜中までの公務を終えて今夜トリクシーに会いに来るというなら彼は相当の考えなしだ。
理性ではそう考えるのに、そんな無理をしてまで会いに来られると思うと頬が熱くなることに気づいて、トリクシーは自分も相当の考えなしだと思った。
あの場かぎりの冗談とは思うが、縄ばしごで登場した前科があるだけにベンは本当に来るかもしれない。
窓辺で待つトリクシーの許に?
それとも白い慎ましいネグリジェでベッドに横たわるトリクシーの許に?
冗談じゃない。それじゃまるで古い恋愛詩のヒロインか――料理されるのを待つ解凍肉だ。
「だいたい何故私が寝室の窓を開けてあの人を待たなくちゃいけないの?」
そう口に出して言って、トリクシーは本当にその通りだと思った。
トリクシーはオーブンに入れたばかりの肉をちらりと眺めた。
――つくづく不遇な星の下に生まれた肉らしい。
* * *
公務を終えたベンは、公用車の中で目を閉じていた。心地よい疲れだった。
車はこのまま空港に向かうことになっている。半分公用だからと兄弟が無理やり王室専用ジェットを手配したが、ディナージャケットのポケットに入っているのはプライベート用のパスポートだ。
彼女はまたにこりともせずに自分を迎えるのだろうか。
そう思うとベンの顔は自然にほころんだ。
公務の合間をぬうようにデートの予定を入れる弟を、半ばあきれ、半ば感心してみていたベンにも、とうとうその気持ちが分かる日がやってきた。
ほんの一瞬でもいい。
顔が見たい、声が聞きたい、温もりに触れたい。
気が長い方だという自覚はあったから、ベンはこんな気持ちになったことが自分でも意外だった。
しかしよく考えてみれば半年前にもベンは、新郎の付添いとして分刻みのスケジュールで動く合間に無理やり時間を作り、セキュリティに居場所を確認してまでトリクシーを捜しに行っていたのだ。
そして顔を見たとたん触れずにはいられなくなった。
トリクシーに関しては常に例外が適用されると思った方がいい。
内ポケットで震える携帯に、ベンは白日夢から覚まされた。
相手の名前を確認してから、通話ボタンを押す。
「今どこっ?」
名乗りもなしに叫んだ相手に、ベンは短く答えた。
「車の中だが」
「すぐに来てっ!」
慌てた声に続く言葉で、ベンは顔色を変えた。
* * *
「トリクシーどうしてここにいるのっ?」
寮から駆け通しできたキャットが、一息でそう言った。
髪は乱れ、顔は化粧水を塗っただけ、部屋着の上にカーディガンを羽織っただけの姿だった。トリクシーからのメールを受けた携帯電話をまだ手に握りしめている。
言われた方のトリクシーは、ノースリーブと五分袖のシンプルなシルクニットの赤いアンサンブルにベージュの細身のパンツ、同色のヒール。プラチナに小粒ダイヤをパヴェセッティングで埋め込んだ大振りなピアスで夜の外出らしい煌めきを加えてある。軽装だがカフェの一人客としてはちょうどいい身軽さだ。
それに対してキャットの方は小腹が空いたのでおやつを買いにちょっと近所までといった風で(実際キャットの寮はここからそれほど遠くはないのだが)華やいだ夜の街では明らかに浮いていた。
しかし観劇を終えたらしい盛装姿もカジュアルな服装の観光客も入り交じるこの店では、二人の違いはそれほど目立たなかった。トリクシーが座るテラス席は特に客層がばらけている。
「どうしてって、キャットが言ったのよ。『次に来た時は、カフェ・ラ・ニュイのコーヒー試してね』って」
「言ったよ、うん、言ったけど……」
キャットは最初の勢いを失って、トリクシーの隣の椅子にへたりと座りこんだ。
二人がいるのは、有名な老舗「カフェ・ラ・ニュイ(夜のカフェ)」だ。ちなみにゴッホの同名の絵とは関係ない。この店名は「夜が明けるまで」という営業時間に由来していた。
最初の驚きから回復したキャットが、トリクシーの手元のカップを覗きこんだ。
「どうだった、ここのコーヒー。砂糖なしで飲めた?」
「ええ。これだけ濃いコーヒーをカフェで味わったのは初めて。香りだけでも死人が目を覚ますくらい強烈ね。寝起きにいい目覚ましになりそうなのに、夜明けには閉まるなんて残念」
トリクシーが笑った。
キャットはその笑顔をにこにこしながら黙って見つめ、やがて言った。
「あのね、私の言ったこと覚えててくれてありがとう。びっくりしたけど、また会えてとっても嬉しい」
「私もよ。会いに来てくれてありがとう。キャットもコーヒーをどう?」
トリクシーの問いかけに、キャットはぶるぶると首を横に振った。
「それは無理。それに私そろそろ帰らなくちゃ、門限なの」
「門限?」
トリクシーが首を傾げた。
「寮の門限。間に合わないと朝まで締め出されちゃうの。がしゃーんって」
キャットが手振りで鉄の門扉が閉まる様子を示してみせた。キャットが暮らす寮では閉門の時間になると門番が門扉を閉めて帰ってしまうのだ。
外から不審者が入るのを防ぐという点では確実だが、再び門が開くまでは中からも出られないという昔ながらの防犯システムは時代にそぐわないことこの上ない。が、あと百年以内に寮規則が変わる予定はなさそうだ。
「本当に学生なのね」
トリクシーが感慨深そうに言った。
チャールズ王子の屋敷でもてなし役を務め、ジェットパックでベネディクト王子を届ける活躍をしたキャットの本来の姿を、トリクシーは今初めて見た気がした。
「うん。私もう帰るけどまたすぐ会おうね。トリクシーはゆっくりしていってね」
そう言ってキャットは腰を浮かせ、あわただしく帰っていった。
* * *
トリクシーはコーヒーのお替りを頼んでから、持参の本を広げた。
「あなたには人の言うことに逆らう呪いでもかかっているのか?」
背後から低い声が降ってきた。
トリクシーのうなじから爪先に甘い震えが抜けた。
トリクシーは手元の本を閉じ、夜会服姿で背後に立つベンを振り返った。
周囲がざわついていた。
女性たちがこちらを見ながらひそひそと口元を隠して囁き合っている。
トリクシーにはベンが無口な理由が分かった気がした。
黙って立っているだけでこれだけ人目を惹くのだから、積極的な女性が苦手だと公言してなるべく自分からも話しかけないようにしておかなければ様々な災難に巻き込まれるのだろう。
ゲイの噂を立てられた時に彼がやっきになって否定して回る気にならなかったのも分かる。
「また会おうと言えばいなくなる、待っていると言えば逃げ出す、会いにいくと言えば違う場所にいる」
責めるように数え上げながらも、ベンの言葉はどこか楽しそうに響いた。
もっともトリクシーとしては本気で怒られたとしても構わなかったのだが。
トリクシーは落ち着き払って答えた。
「ちゃんとキャット経由で伝言を残したでしょう。またヘリで追いかけ回されても困るもの」
近くの席で恥ずかしげもなく聞き耳を立てていた女性たちがぎょっとした顔をした。ベネディクト王子が女性を追いかけた?
ベンは周囲に気を散らされたりはしなかった。
「あなたに会えて嬉しい」
いきなりの攻撃に、身構えのできていなかったトリクシーは軽い眩暈をおこした。
古い石橋を渡る隊列は共振で崩れるのを避けるためにわざと足並みを乱すというが、ベンの声を聞くとトリクシーの中でも何かが共振して崩れそうになる。
会えて嬉しいというのはただの挨拶だ。初対面の相手にだって使う。
ただベンの『あなた』のところをわずかに強調したりする卑怯な話し方と、この声の周波数がいけないのだ。
「……ヘリウムガスはどうかしら」
トリクシーがひとりごちた。
ベンはいぶかしげに彼女を見つめた。
「ヘリウムガス?」
「いえ、何でもないの。ひとりごとよ」
ベンはトリクシーのテーブルの、空いた椅子を示して訊いた。
「隣に座っても?」
夜会服姿で後ろに立たれるよりは目立ちにくいだろうと、トリクシーは頷いた。
ベンが閉じたまま机に置かれた本を見て言った。
「何の本?」
「知らないわ。飛行機の中で読もうと思って空港で買ったの」
内容を説明できないのは、本を買ってはみたものの気持ちが落ち着かず機内で読めなかったからだが、トリクシーが自分からそんなことを告白するわけがなかった。
差し出された本を受け取ったベンが、表紙を見てから本をひっくり返し、裏表紙と奥付を見るのでトリクシーは笑いをこらえた。
迷惑がるトリクシーにあれこれ世話を焼いていた二十年前とちっとも変っていない。本のこととなると、ベンは大きな子供のようだった。
「お貸ししましょうか?」
「いや――」
ベンが本を置いて、トリクシーをじっと見つめた。
何故かトリクシーは身構えた。
「それで、密航というのは?」
今度こそ間違いなく、ベンの口調にはほんの少しの甘さもなかった。
なぜ今ここでわざわざこの話題を持ち出すのか。いや、きっとベンは聞けるようになったらすぐに聞くつもりでトリクシーが不用意にもらした言葉をポケットにしまっておいたのだろう。
寝室の窓から訪れたとしてもトリクシーを問い詰めるつもりでいたのか。
トリクシーは人を惹きつける時用のとっておきの笑顔をつくった。
「さあ、何かしら?」
ささいな問題であればトリクシーはたいていこの笑顔で解決できるのだが。
トリクシーにとっての不運は、たまたまベンに言い逃れの上手い弟がいてこの手の作り笑顔に免疫があったことだ。
ベンの追及の手はゆるまなかった。
「キャットに伝言していただろう、借りを返すと」
あんな状態でよく会話を聞いていたものだと感心しながらトリクシーは笑顔を引っこめて、ベンをまっすぐ見つめ返した。
傍から見れば二人は見つめ合っているように見えるだろうが、実際にはトリクシーはベンに睨まれながら何と言い逃れようか考えているところだ。
トリクシーは頭に浮かんだことを直感で口にした。
「あなたって……感情が昂ぶると瞳の色が変わるのね」
ベンはぱっと目をそらし、体の向きまで変えて黙り込んだ。
軽いジャブのつもりの一撃でまさかのノックアウト勝ちを得たトリクシーは、視線で給仕を呼んでさっき頼んだコーヒーがどうなったのか訊き、ついでにベンの分をもう一杯追加した。
目の前に二つのコーヒーが置かれてからやっと、ベンはトリクシーに視線を戻した。トリクシーはカップを上げてみせた。
「このコーヒー、この名物なんですってね。気にいったわ」
ベンが同じように目の前のカップを口に運ぶのを、トリクシーはさりげなく見守った。
ベンは一口そのまま飲んで、カップをソーサーに戻して感想を言った。
「濃い」
さすがに王子だけある。口に入れたとたんに顔をしかめたり咳き込んだりするようなことはなかった。
トリクシーは笑いをこらえて真面目な顔を作っていた。
ベンがぼそりとつぶやいた。
「覚えておこう」
トリクシーはぴくりと身じろぎした。
ベンは再びカップを手にした。何が『覚えておこう』なのか、続きを言う気はないらしい。
さっきのは『よくも泥のようなコーヒーを飲ませたな、覚えておくぞ』という意味なのか、名物コーヒーの味をこういうものだと『覚えておこう』というのか、それともトリクシーの嗜好を『覚えておこう』というのか。
問い質すこともできないまま、トリクシーは無言でコーヒーを飲み続けた。ベンも、味を調えるでもなくおとなしく残りのコーヒーを飲んでいる。
会話のない二人のカップはほぼ同時に空になった。
「ベアトリクス、右手を出して」
トリクシーはすかさず左手を突き出した。
次の瞬間、ベンは弟によく似た人の悪い笑みを浮かべた。
「かかった」
トリクシーは何が起きたのか分からなかった。
突き出した手をベンに握られたと思ったら、気付いた時には左手の薬指に手品のように指輪がはめられていた。
「いったい何のトリック?」
「あなたのものだ」
トリクシーはあっけにとられて左手を見下ろした。
そこにあったのはサファイアのソリテール(一粒石)リングだった。
普通はこういった大粒の宝石を使った指輪では石を浮かせるように周りに隙間をつくって光を入れ、石の大きさと輝きを目立たせるものだが、この指輪はサファイアの大きさを犠牲にして波うつプラチナの縁でぐるりと囲み、飛び散る雫のような小さなダイヤモンドで飾ってあった。クッションカットが施された中心のサファイアは海面のように光を集めては細かく散らし、たやすく深みを覗かせない。
一目見たら手放せなくなるような美しい指輪だった。宝飾品というより芸術品と呼ぶのがふさわしかった。
「もらう――覚えがないわ」
ほとんどいいがかりだという自覚はトリクシーにもあった。
国王である伯父が結婚の許しを与え、自分も刀自の前で彼を自分の夫だと認めている。ベン本人も結婚の意思を表明している。
……でも、彼はトリクシーにしるしの箱を返してもいた。
こんなどさくさまぎれに指輪をはめられるほど確かなものはまだ二人の間にはないはずだ。
トリクシーは指輪をした手を前に持ってきて、右手で指輪を外そうとした。
その時、ふと嗅いだことのない香りを感じてトリクシーは手を止めた。そして指輪をはめたまま、自分の左手を顔に近づけた。
「嗅ぎ煙草の匂いが移った」
トリクシーが正体にたどり着く前に、ベンが答えを言った。
驚いて顔を上げたトリクシーは、ベンの微妙な顔つきを見て噴きだした。
その顔を見ただけでトリクシーには、ベンが何を計画し、それを自分が直前でどう頓挫させたかが理解できた。
あの嗅ぎ煙草入れはただの目くらましであそこに置かれていたのではなく、トリクシーのためにベンが置いたものだったのだ。
べたべたにロマンチックで、大きな子供のような。
物語の世界で暮らす、本物の王子様が。
ベンはそっけなく告げた。
「あなたが見つけたのだから、これはあなたのものだ」
さっきあの瞳の色を見ていなければ、今ベンがひどく緊張していることにトリクシーは気づかなかったかもしれない。
トリクシーは、二人で手をつないで階段を下りた時のことを思い出していた。
ベンは薄暗いあの階段でも同じ瞳の色をしていたのだろうか。
自分でも気づかずに、トリクシーは微笑んでいた。
「宝箱を掘り当てたのならそういうこともあるかもしれないけど、人に借りをつくるのは好きじゃないの」
「そのようだな」
ベンがトリクシーと目を合わせずに答えた。
突き返されるのが嫌なら、勝手に指輪をはめたりしなければいいのだ。
この王子はいつも肝心なところで言葉を惜しんで強引に物事を推し進める。
……いや、そうでないこともあった。
あの塔の上で。
そして塔の下でも。
「――だから代わりにこれを差し上げるわ」
トリクシーは自分のバッグから白木の箱を取り出し、ベンに差し出した。
ベンががたっと音を立てて椅子から立ち上がった。
目の前のカップが空になっても声も出せず、席も立てずに息をひそめて二人を見守っていた周囲は息をのんだ。
おそらくほとんどの人はチャンシリーの海の女王の娘のことなど知らない。
けれどさきほどからの二人を見ていれば(周囲の人々はしばらく前から行儀よく見ていない聞いていないふりをするのをやめていた)、王子がなにがしかの意思を表明し、それが受け入れられたと悟るのは容易だった。
海の女王の娘の足許にひざまずいたベンがしるしの箱をうやうやしく受け取った瞬間、周囲からは大きな拍手と歓声が沸きあがった。
立ちあがったベンがトリクシーを腕に抱いて空のコーヒーカップを掲げると、他の客たちも空のグラスやカップを掲げて乾杯を唱和した。
end.(2013/02/13)
本文中にも書いたとおり、ゴッホが描いた「テラス・デュ・カフェ・ラ・ニュイ(夜のカフェテラス)」とこの話の舞台となった「カフェ・ラ・ニュイ」は無関係です。が、どんな絵だっけという方のために画像をお借りして冒頭に挿入してあります。
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