マリッジ・グリーン 1
プロローグ
週末。チップは幼い子供のように喜びと共に目覚める。
目を開けて最初に映るのは愛しい人の寝顔。他に例えようのない幸せな景色だ。
彼の恋人キャットは、ウォームアップなしで活動がはじめられる典型的朝型だ(その代わり、夜眠くなるとまるで役に立たない)。寝起きの顔が見られるタイミングは日の出と同じで、一瞬しかない。
「おはよう、プレシャス・ワン」
誰よりも貴重で稀少な存在にそう呼びかけ、頬をくすぐって起こす。
ぱちりと目を開けた恋人は、いつもの微笑みの代わりに真顔で言った。
「どうしてベスに優しくしなかったの?」
「うっ?!」
チップはみぞおちを殴られたような声を漏らし、すぐ気を取り直した。
「夢の続き? もう朝だよ」
「違う。婚約してた時」
チップの朝の喜びはどこかへ消え去ってしまった。
どうして女性はいつも、クローゼットで眠っていた服のような過去の出来事を不意に持ち出してくるのか。
たぶんアダムもイブに同じように責められたんだろうな、とチップは思い、苦笑しながらやんわりと言い返した。
「君が思う優しさと僕が思う優しさが一致するとは限らない。僕が優しくしなかったと決めつけてかかるのは公平とはいえないんじゃない?」
ごまかされるとでも思ったのか、キャットの声に責めるような響きが加わった。
「一度もデートしないでどうやって優しくできたの?」
チップの方はごまかす余裕なんてない。
寝起きにいきなり重たいハンマーをぶんぶんと振り回す恋人を意味のない言葉でなだめようとしたが、キャットの攻撃はとまらない。
「婚約中に私とキスしたし」
チップは思わず言い返した。
「あれはっ――君が頬にキスなんかするから」
「私のせいっ!?」
キャットの瞳が怒りで色を変えた。
何故朝からこんなことで責め立てられなければいけないのか。
童話のお姫様のようにキャットのシーツの下にそら豆でも入っていたんだろうか?
チップは頭が痛くなりそうだったが、恋人の怒りをおさめようと何年も前の過ちについて謝罪をしはじめた。
「分かった。過去において僕は婚約中にもかかわらず君にキスをした。まったくもって軽率だった。謝罪する。君が無邪気にも異性との距離を縮めすぎたことは確かに原因のひとつとしてあるが、男について何も知らなかった君にその責任を負わせることはできない。つまり僕が自制するべきだった。これに関しては全面的に僕が悪い。僕が考えなしに行動したせいで、十六歳の君に婚約者のいる男とキスしたという罪悪感を抱かせてしまったことは申し訳なく思ってる。だけどね」
話しているうちにチップの中にも言われっぱなしではおさまらない気持ちがむくむくと膨らんできた。彼女より七つ上だとはいえ彼もまだ成熟した大人といえる歳ではない。
「僕とベスの婚約と解消に君の存在は全く影響していない。ベスへの接し方に関して君にこんな風に責められるいわれはない。もっとうまく立ち回れたら色んな人を傷つけずに済んだかもしれないけど、あれが当時の僕の精一杯だった」
チップが自分を守るために使った盾はあまりに大きく堅かった。
弾き飛ばされたキャットの顔を驚きと、そして苦痛がよぎった。
とたんにチップは自分の言葉を後悔し、言葉の盾を放り出して細い身体をひきよせた。
「ああ、きつい言い方をしてごめん。泣かないで」
「泣いてない」
伏せられたまぶたに、チップがキスを落とす。
頑ななキャットの背中、肩甲骨の間を手のひらで温めながら、チップはキャットの頭のてっぺんに低い声で語りかけた。
「あの頃のことに関しては君に説明しきれていないことがまだある。いつか話せると思う。勝手な言い草だけどそれまで待ってほしい。それから……」
チップのもう片方の手がキャットの頬に添えられた。
「君とキスしたのは正しいことじゃなかったけど僕は後悔してない」
手の下の体からふっと力が抜けたのをチップは感じた。
少したってからキャットが顔を上げ、真面目な顔で呼びかけた。
「フライディ」
「なあに、ロビン」
「二度目は私が悪いんだよ。婚約者がいるって知っててキスしたんだから」
「君はキスがしたかったわけじゃない。自分の誇りを守りたかったのと、僕を慰めようとしただけだ」
あの時の気持ちをぴたりと言い当てられてキャットが言い淀んだ。
「……それは、そうだけど」
「対する僕は君とキスがしたくてしたくてたまらなかった。さあ、罪はどちらにあったと思う?」
人の悪そうな笑顔で覗きこまれ、キャットの瞳が再び色を変える。
どちらからともなく身を寄せ合い、言葉の代わりに本物のキスを交わして諍いを脱ぎ捨てる。
お互いの熱を感じながら、二人はさっきの出来事をそれぞれ胸にしまった。
どんなラベルをつけてしまったのかは、お互い分からないまま。
* * *
大学に近いカフェはエドのお気に入りだ。
学生が通うには価格帯が高目、かつ女性客が好むケーキ類もあまり置いていないとあって、いつ行っても他の客や従業員に煩わされることなく一人の時間がもてる。警護官は入口近くの席で待機するので、少しばかり自分の世界に入り込んでも誰にも見とがめられない。
そんな居心地の良い場所でエドがついひとりごとをつぶやいたのはある意味で仕方のないことだった。
「指がなあ」
「指がどうしたの?」
エドは口から出そうになった心臓を無理やり呑みこんだ。
もしかしたら出そうになったのは悲鳴だったかもしれないが、どちらであっても構わない。
一瞬の硬直からさめるとエドは急いで書いたものを腕で隠そうとして、紅茶のカップに肘打ちをくらわせた。
とっさにカップを上から掴んで止めたキャットが手のひらにはねた紅茶の熱さに短い悲鳴をあげ、振り払われた紅茶の雫がテーブルに流れ星のような軌跡を描く。
混乱はほんの数秒で収まったが、エドとキャットは急いで従業員と警護官に手を振ってこちらに来る必要はないと知らせた。
エドが立ったままのキャットに椅子を勧め、キャットが素早く従う。
二人に集まっていた視線がほどけて散り、その場の空気が静まっていく。
自分の手のひらをふーふーと吹いていたキャットが、少しすねた様子で横目をつかいながら訴えた。
「そんなにあわてなくても私、人が書いてるもの覗き込んだりしないよ」
エドは素直に謝った。
「ごめん。末っ子だからつい癖で」
とたんにキャットは顔をしかめた。責めるべき相手はエドの向こう側にいると悟ったらしい。
「そういうことしそうなお兄さん、一人しかいないよね」
「だいたいキャットの予想通りだよ」
キャットは恋人の過去の悪行をまた一つ知らされ、溜息とともにこぼした。
「私ね、もし小さい頃からチップのこと知ってたらベスみたいに大嫌いになってたと思う」
「ああ……うん」
エドが急に視線を泳がせた。
「どうしたのエド」
エドが何度かためらう様子を見せてから、さっき隠そうとした紙をキャットに向けて差し出した。
そこにはスポーツの名前がいくつか並んでいた。いくつかは線で消されている。さっきの指に関するつぶやきはどうやら一番下に書かれたアーチェリーについてのものだったらしい。
「何か始めるの?」
エドはその問いに答える代わりに質問で返した。
「この中に、チップがやったことないものってない?」
「……理由を聞いてもいい?」
「チップに勝ちたいんだ」
「うん、その気持ちはすごくよく分かるよ」
「結婚式までに」
エドの言葉に、キャットの動きが止まった。
チップに勝ちたい気持ちはキャットの中に常にある。もちろん生まれた時から負け続けているエドの心中にはキャット以上にあるだろう。
しかしはっきり言ってしまえば、結婚式まで二ヶ月を切ったこの時期に新しく何かで挑んで勝てる程度の相手だったら、もっと前にエドは勝利をもぎとっていた筈だ。
エドが再び口を開くまで、少し間があった。
「エリザベスは今、すごく幸せだって言ってくれる」
「本当にいつもにこにこしてるしキラキラしてるよね」
キャットはこの国で最初にできた友達であり魂のお姉ちゃんであるベスの最近の姿を目に浮かべて知らず微笑んでいた。
しかしエドの顔に笑顔はなかった。
「今更って思われるかもしれないけど、チップと婚約してた時のエリザベスはすごく不幸そうだった。彼女がチップを嫌っていたのは事実だけど、それにしたってチップがもっと婚約者らしく振舞っていれば気持ちも変ったかもしれないのに、チップは何もしなかった。長い休暇の時だって会いにも行かなければ社交の場に一緒に出てもいない。
確かに正式な婚約じゃなかったけど家族の他にも知っている人はいたし、その人たちはエリザベスがまるで放っておかれたところを見てる。僕はそのことに関して今もチップを許せない。彼女はもっと大事にする価値のある人だったのに。チップは婚約を受け容れておきながら彼女に花一輪すら贈ってないんだ」
キャットは自分が今までにチップに贈られた抱えきれない大きさのアレンジから髪に差された通りすがりの花までを思い出し、やましさに顔を赤くして告白した。
「私ね。初めてベスからチップと一度もデートしたことないって聞いた時は嬉しかったの。ああ、本当に形だけの婚約だったんだって。私が会ったときはもうベスはエドの恋人だったし、二人が幸せそうだったからこれでいいんだって思ってた。ベスがチップと結婚しなくて済んでよかったって言うのも本気だと思うよ。
でも、チップのことを知れば知るほど、私もどうしてチップがベスには優しくなかったんだろうって思うようになって――女の人が苦手だとかシャイな人ならともかく、チップならもっとアプローチできたと思うし、ベスが他の人にどう見られるかも分かってたと思うんだよね」
「うん。……チップが王位継承権を放棄することになって、婚約の予定も撤回されるって聞いた時はあんまり腹が立ったからチップを殴りに行った」
「殴ったの? エドが?!」
目を丸くしたキャットに、エドは肩をすくめてみせた。
「相手はチップだよ? 避けられた上に殴り返された」
「ああ、エド。可哀想」
キャットの声には心からの同情がこもっていた。
チップが負けるのは彼自身が負ける気になった時だけだと、キャットはよく知っている。しかも後で必ず『あの時は自分の意志で勝ちを譲ったのだ』という余裕をこれみよがしにみせつけるのでなお性質が悪い。
「とにかくそういうわけで僕は、封を開けてないプレゼントみたいに目の前に回ってきた婚約者をただ譲り受けたんじゃなく、チップからエリザベスを勝ち得たんだって自分を納得させたいんだよ。結婚前に。
……こんな時期に何をやってるんだろうって自分でも思うけど、ベスと一緒にいてもずっとそのことが頭を離れないんだ」
「それで結婚前だっていうのにブルーになってるの?」
「むしろグリーンだね」
エドが面白くなさそうに笑った。
嫉妬は緑の目をした怪物だという。自覚はあるらしい。
けれどパートナーを獲得するためにライバルを打ち倒す生物があれほど多く存在するのだ。エドの今の気持ちは本能的な欲求と言えるのではないのか。
「うん……やっぱりそうするべきだよね」
キャットが何かを決意したように大きく頷いて言った。
「そこに書いてない、とっておきのがあるよ」
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