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ショートショート 月と二人

 遠方の式典に招かれていたアートが王宮に戻ったのは、もう日も落ちた頃だった。
 移動の車から東の空に昇りはじめた月を見て、今夜は満月だったかと思い当ったアートは居室の扉を開けた時そこに妻の姿を期待した。
「ただいま」
 アートの期待どおり、そこにアンはいた。
 が、アートが想像していたのとは異なった場所で、異なった姿だった。

 王太子妃は、壁際に置かれたサイドボードの端につかまり天板に顔を伏せていた。
「どうしたんだ?」
 アートは妻の背中に向かって問いかけた。
 アンはあわてて腕を伸ばし、体を起こして振り向いた。顔が赤くなっているのは伏せていたせいか、違う理由か。
「おかえりなさい。ちょっと運動を」
 アートは上着のボタンを外しながら尋ねた。
「運動?」
「……今日の朝食の時にね」
 どうやら今朝、前日から出かけていたアートの知らない何かが起こったらしい。
 壁際を離れたアンが、そそくさとアートの後ろに回って上着を脱がせながら続けた。
「チップが部屋の中でできるエクササイズのことを話して、皆もやってるっていうの。ちょっと時間があったから私も試してみようと……変なところを見られてしまって恥ずかしいわ」
 早口で言い訳するアンの声を背中で聞きながら、アートは自然に微笑んでいた。

 結婚してからのアンは自分の気持ちをアートに正直に言うようになった。
 以前の彼女が感情をむきだしにしなかったのは、生来が穏やかな性質なのも育ち方もあるのだろうが、長い療養期間で我慢強さを身に着けたことも関係しているのだろう。
 彼女のその性格は結婚生活を送る上でも、王太子妃という立場としても好ましいものだが、アートは他人、特に女性の感情に敏い方ではないという自覚があるので、結婚する時に言葉にできることはなるべく言葉で伝えてほしいとアンに言ってあった。
 それからアンはアートの言葉に従って、言いにくいこともなるべく言葉で伝えようとしてくれる。その一生懸命さが愛おしかった。

「身体を動かしたいなら、散歩に行こう。今夜は満月らしい」
 振り向いたアートの誘いに、アンはアートの上着を持ったまま幸せそうに眼を伏せ頷いた。

 この美しさを絵に描けないものか、とアートは無言のままいつものように考えた。

 アンの肖像画は慣例どおり王室画家によって描かれ、王宮のギャラリーに飾られている。画家が描くのは正面を向き軽く微笑んだ、これも慣例どおり公式写真のような表情と決まっている。
 確かに目を伏せた姿は肖像画には向かないだろう。しかしアンの一番の美しさは目を伏せ少しうつむいて頷く時の表情、そこから顔を上げてこちらを見返す一瞬前の姿にあるとアートは思っている。

「上着を取って、靴を変えてくるわね。あなたも着替えていらしたら?」
 そう言って嬉しそうに部屋を出ていくアンの背中を見ながら、アートは心の中でいつもと同じ結論にたどり着いた。
 まあいい。アンのことは自分が知っていれば、と。

 月夜の散歩は、二人が気持ちを伝えあうことなく友人として過ごした間にできた習慣だ。
 アンの実家の庭園から王宮の庭に場所を変えた今も、月に照らされて歩くのは二人にとって特別の時間になる。

 月光は人を惑わすという言い伝えがあるが、この二人には当てはまらないらしい。じりじりと人を焦がすような太陽よりも、道を照らす明るい月を好ましく思う彼らに似つかわしく、歩きながら交わす言葉もまっとうで穏やかなものだった。

「身体を動かしたいなら地階のジムに行けばいい」
「そこまで本格的にやりたいわけじゃないの。それに運動なら、毎朝あなたと一緒に走っているでしょう?」
 毎朝アートがランニングをするのに合わせて走るようになってから、アンは以前より体調がよくなったらしい。最初は無理をさせているのではないかと心配していたアートだったが、日時の決まった公務が多い王太子妃が健康であることは本人にも周囲にも有益なので、止めなくてよかったと今では思っている。

「チップがベンに、花嫁を抱いて歩けるくらいの腕力は鍛えておかないとって言ったらね」
 アンはその時のことを思い出したらしくふふふっと笑った。
「ベンはそんな運動より本人を抱いて練習した方が確実だ、なんていつもの調子で言うのよ」
「ああ」
 アートにもありありと想像できた。多分弟たちが大げさに冷やかしの声を上げる中、ベンは表情も変えずに朝食を摂り続けたのだろう。
「エドはね、ベスが止めたんですって。バイオリンが弾けなくなると困るからって」
 アンがアートを見上げておかしそうに言った。新婚の末弟が毎朝目覚まし代わりにバイオリンを弾いているというのは王宮内で誰もが知る話だ。確かにベスにとっては毎朝自分のために弾かれるバイオリンの方が誰にでもできる力自慢より重要だろう。

 アートはふと足を止め、アンに尋ねた。
「しかしその話からすると、鍛えるべきは君ではなく私では?」
 アンが慌てて言った。
「そんなつもりで言ったんじゃないの!」
「まだ弟たちに負ける気はしないが」
 アートは珍しく冗談めいた口調で腕を叩いてみせたが、アンは激しく首を横に振った。
「王太子をひざまずかせるなんてとんでもない! ましてや背中に乗るなんて!!」
 アートはアンの慌てぶりに驚きつつも、会話のかみ合わない個所について確認した。
「背中に乗る、とは?」
 あっという顔をしたアンは、とても言いにくそうに告白した。
「そのう、チップが言っていたのは……背中にキャットを乗せて腕立て伏せをするって話だったの」

 珍しいアートの笑い声が、月に照らされた散歩道の先まで響いた。

 アートが笑いながら言った。
「確かにそれは君の口からは言いにくい話だ」
「本当に、そんなつもりじゃなかったのよ!」
「その話を聞いてどうして君が腕立て伏せに挑戦しようと思ったのかは分からないが」
「それは私もできるか試してみただけで」
「――ひざまずかなければいいんだろう」
 アートは言いながら少し屈むとアンの背中と膝の裏に腕を差し入れた。
「きゃっ」
 小さな悲鳴を上げたアンは、夫に抱き上げられた驚きに身体をこわばらせた。
「重たいでしょう、降ろして」
「この先は道が悪い」
 アートはすました顔で前を向き、降ろすどころか止まる気配もない。
 アンは少しためらいながらも両腕をアートの首に回し、耳元に唇を寄せ囁いた。

「こんなことしていただきたくないのよ?」
「聞こえない」
「強引だと言われない?」
「私にそんなことを言う相手がいるなら会ってみたいものだな」
「私のお願いは聞いてくださらないの?」
「嫌か?」

 ――――その時アンが何と答えたのかは、月と二人だけの秘密だ。

end.(2015/03/28)

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