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ショートショート あなたのため

 トリクシーは、開いたドアの真横に張り付いて肩を震わせながら立ち聞きをする未来の義弟(チップ)を見つけて眉を上げた。
 しかし人差し指で目の前の背中を強めにつついて声をかけたトリクシーは、逆にチップからとがめられることになった。
「しーっ、今ベンとエクササイズっていう世にも珍しいテーマのトークが交わされてるんだ。邪魔を――いや、君も聴いてみろよ」
 これがベスなら立ち聞きなんて何を考えているのとチップが厳しく叱責される場面だが、ある意味で最もチップに近い価値観をもつトリクシーは恥ずかしげもなく立ち聞き仲間に加わった。

 部屋の中からはキャットが楽しげに一人で何やら語る声がしていた。電話に向かって話しているのでなければ会話の相手はベンだろう。
「足上げ腹筋して本読めばいいんだよ――ソファとか床に仰向けに寝て、膝曲げないで足を浮かせる。足を床に着けないようにゆっくり上げ下げ。十回ずつくらいでインターバル置いて繰り返す。数えるのが面倒なら足上げしたまま動かさなくても腹筋鍛えられるよ? チップは床に書類置いて腕立て伏せしながら読んでたし、結構部屋でできるエクササイズってあるよ。壁に背中つけて腰落とす空気椅子とかね。あれなら本読めるんじゃないかな」
 やっとベンの低い声がした。 
「王宮の地階にマシンがある」
「ベンは地階に行くつもりで図書室寄っていこうとか思ってそのまま出てこないと思うよ」
「そこまで――」
「そこまでだよ。私知ってるもん」
「そうか」
「だよ」

 この二人の場合、会話のほとんどをキャットが担当するのだが、しばしばキャットは途中の説明を省略する。それでもお互い不自由なく通じ合っている様子なのは周囲にとっての謎のひとつだった。
 しかし続くキャットの提案は誰が聞いても明らかな内容だった。
「あとはそうだなあ、トリクシーに朗読してもらいながらエクササイズするとかどう?」

「ちょっと待ちなさい、キャット! 妙なことに私を巻き込まないでよ!」
 トリクシーが立ち聞きしていたことも忘れて慌てた声を上げた。
「あれ、トリクシーいたの? フライディも」
 キャットは部屋に飛び込んだトリクシーとチップを見てのんきに言った。
 ベンはトリクシーを見ておかしそうにくっと顔をゆがめた。トリクシーはかっとなってベンを睨みつけた。
「どうして私があなたのために朗読なんてしなくちゃいけないのよ?!」
 ベンの代わりに答えたのはキャットだった。
「えっ、だってベンのエクササイズってトリクシーのためなんでしょ?」
「私のため?」
 トリクシーがいぶかしげにキャットの言葉を繰り返した。キャットは頷いた。
「ベンがトリクシーのおかげで食事抜かなくなったって言うから。美味しいもの食べ過ぎて太らないようにって、本読みながらできるエクササイズ教えてあげてたんだよ」
「本当にこの人がそんなこと言ったの?」
 疑いの眼差しを向けるトリクシーに、ベンが答えた。
「体型の心配はしていない」
 ほらご覧なさいと言わんばかりの顔をキャットに向けたトリクシーは、ベンの次の言葉で凍り付いた。
「あなたが自分以外の誰かに料理を作るのは楽しいと言っていたから、きちんと食べられるように軽く体を動かそうと」
 二人きりの時に何気なく口からこぼした無防備な言葉を皆の前で暴露され、トリクシーが真っ赤になって口ごもった。
 キャットはそんなトリクシーの顔色に気付かずベンに我が意を得たりとばかりに語った。
「そうだよね、残したくないよね! トリクシーの作るデザート美味しいもんねえ! 私も教えてもらったレシピで作ったんだけどトリクシーほど美味しくできないの。たぶん次の作業に移るタイミングの見極めが下手なんだよね。同じ味だってチップは言うんだけど、チップはうそつきだから今度ベンにも食べ比べてもらおうかな。あ、でもそれじゃせっかくエクササイズする意味なくなっちゃうか」
「ああ」
「わかった、じゃあやめる」
「ああ」
 フリーズしたままのトリクシーを置き去りにして、ベンとキャットの語数が不均等な会話は続いた。

 ちなみにこの三人の会話の間ずっとチップは喋れないくらい笑っていた。

end.(2015/03/26)

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