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チップとキャット 4

「チップ!」
 二人の声が重なった。チップがにっこりと微笑んだ。
「廊下まで聞こえたよ。恋人といるのに違う男の話なんかするなよ、ベス。エドが妬くよ」
「あなたはそういうことに関してエキスパートですものね」
 ベスの嫌味を聞き流してチップが訊いた。
「キャットは?」
「あなたとは会わせません」
「まだ熱が高いの?」
「何で熱出したって知ってるの?」
「さっき案内してもらった時に聞いた。ちょっと様子を見てくる」
「だめっ!」
 ベスは部屋を出ようとするチップの腕を掴んで止めた。
「キャットが自分からあなたに会いたいって言うまで、会わせない」
「ベス?」
「キャットは会いたがってなかったもの。知ってるでしょ? 昨日だってあなたに会いたくなくて逃げ出したじゃない」

 チップは溜息をついた。
「今は君と言い争う時間はないから帰る。……あとでまた来る。もしキャットが起きたら僕が心配してたって言って、また来るって伝えて」
「伝えるかどうか分からないわよ」
 ベスが脅すようにそう言ったが、チップは軽く笑ってそれには取り合わなかった。
「君はそこまで意地悪じゃない。じゃあね」

 チップがそう言ってきびすを返し、廊下を出口に向かって行った。
 チップが消えた後もベスが肩に力を入れたままドアの前で立ち尽くしていたので、先ほどは口が挟めなかったエドがようやく自分の出番がきたとばかりに立ち上がってベスをソファへと促し座らせた。
「やっぱりチップのことは大嫌い」
「エリザベス」
「どうしていつもいつもいつも、あんな風に自分は何でも分かってるって顔してるのよ」
「エリザベス」
「私のことだって何にも知らないくせに、偉そうに!」
「エリス!」
 エドがベスの肩に手をかけて、自分の方に向き直らせた。
「チップが言ってたことは本当だよ。あんまり僕の前でチップの話ばっかりしないで!」
「エド?」
 驚いて眉を上げたベスに、エドが少し強引なキスをした。

 ベスはしばらくはまだ怒りの余韻で体に力が入っていたが、エドの一生懸命なキスに段々に気持ちと体が和らいできた。
「ごめんなさい、エド」
 そう言ったベスが肩に寄り添ってくれたので、エドもやっと機嫌を直し、それから恐る恐る自分の意見を口にした。
「ねえ、エリザベス。やっぱりチップはキャットのことが大切なんじゃないかな。そうじゃなきゃわざわざちょっとの間にキャットの様子を見に来ないと思うんだけど」
 ベスの体がまた固くなった。
「だから? チップは浮気なんかしたことないとでも?」
「……ごめん」
 エドは兄の弁護をあきらめ、不機嫌な恋人に逆らうなどという危険な真似は一切やめることにした。

 キャットが目を覚ました後、ベスはまだチップに腹を立てながらも律儀にチップが言ったことを伝えた。
 夜になってふたたびチップが現れた。
 ベスが取次ぎに行き、意気揚々と戻ってきてチップに告げた。
「キャットは会いたくないんですって」
「どうして?」
「さあね。あなたの博愛主義を目の当たりにしたショックかも。私もあなたとキャットを会わせる気はないわ。どういうことだか納得のいく説明ができるのなら、弁解してみなさいよ」
 とげのある声でそう言ったベスに、チップが形ばかり微笑んで言った。
「君を納得させるために、何故キャットも聞いてない話を彼女より先に君にしなくちゃいけないんだよ」
 チップはそう言ってベスの返事も待たずに急にきびすを返した。
 ベスはチップを呼び止めようと思ったが、もうひとこと余計なことを言ったら本気でチップを怒らせそうだと感じて、大股に歩いて去っていくチップの背中にどうしても声がかけられなかった。

 一方キャットは、会いたくないと断ったものの一目でもチップの姿が見られないかと石造りのバルコニーにしゃがみこみ、手すりの間から玄関のあたりを覗いていた。
 その目の前に、いきなりチップが現れた。
「ひゃっ」
 声にならない悲鳴を上げたキャットは、のけぞった拍子にお尻をつき、そのまま後ずさりした。
 チップは身軽に手すりを乗り越え、座り込んだキャットのすぐ前に立ち、彼女に上から被さるようにして言った。
「ロビン、何で携帯まで切ってるんだよ」
「わかんないっ!」
「怒ってるとか、別れたいとか、何でもいいから僕から逃げてる理由を言えよ!」
「わかんないってばっ!」
「バルコニーからパジャマで覗き見なんて子供のすることじゃないか!」
「子供だもんっ!!」
 チップは一瞬キャットを見つめ、それから高らかに笑い出した。
「そうだ、君は子供だ……いつも僕はそう言ってるのに、こんな時だけ子供じゃないって言うのはフェアじゃないな、確かに君の言うとおりだ」
 チップは笑いながらそう言って、キャットの前に膝を着いて顔を覗き込み、改めて真剣な顔で続けた。
「でもお願いだ、ロビン。黙って逃げないで何でもいいから思ってること全部言ってくれ。口で足りなければ殴っても蹴ってもいい。但しもし君が別れたいって言いだしたら僕は全力で引き止めるよ」
「私……別れるなんて嫌だよ」
 チップは目の前で泣き出したキャットに両手を伸ばし、二度と離すまいというように抱きすくめた。
「僕だってそうだよ。落ちたら骨を折ること間違いなしな年代物の石の壁を、わざわざ君に振られに登ってくると思うのか?」
 キャットはぎゅうっと恋人にしがみついた。恋人もしっかりと抱き返してくれた。
「そんな姿じゃまた熱が上がるよ」
 そう言ってチップがパジャマ姿のキャットを抱き上げて窓を開け、ベッドにキャットを寝かせ自分はベッドに腰かけた。

 二人は無言で見つめあった。
 口を開いたのはチップが先だった。
「会いたかった」
 チップが笑顔でそう言うと、キャットが不意に顔を歪めた。
 子供のように声を上げて泣き出したキャットを、チップがシーツごとしっかりと腕の中に抱きしめた。

「ロビン、ロビン、僕はまだ君の恋人でいさせてもらえるの?」
 チップのシャツを濡らしながらキャットは無言で何度も頷いた。それから顔を上げた。
「ねえ、フライディ。あの人とキスした?」
「君はどう思う?」
「わかんない。し……てない?」
 キャットの言葉に、チップが答えて言いだした。
「経験上ああいう時は素直に受けた方がその場を納めやすいんだが」
 一瞬また泣き出しそうな顔をしたキャットの鼻の頭に軽いキスをしてから、チップが続けた。
「君とあんなに刺激的なキスをした後で他の人とする気にはどうしてもなれなくて。あきらめてくれないからどう言い抜けようかと思ったら、タイミングよくベスが来てくれた。おかげで全部うやむやにできたよ」
「どうしてあの時そう言わなかったの?」
「あの手の女性は下手に人前で恥をかかせると後がやっかいなんだよ。カラスみたいに頭が良くて死ぬまで恨みを忘れないから、いかにもありそうな話をでっちあげて言いふらされたりする。僕はそんなことで傷ついたりはしないけど、君が僕の弱点だと知られたら何をされるか分からないからそれが怖かった。
 とりあえずあの場を皆に目撃されたことで恋多き大人の女性のプライドは満足したみたいだけど、あんな下らない場面に遭遇させて君を傷つけたことは本当に本当に申し訳なく思ってる」
「どうしてあんな暗いところにいたの?」
「いたくていたわけじゃないさ。それでも女性を一人で人目の届かない暗がりに置いていくわけにはいかないだろう」
 疑り深い顔でキャットは更に追及した。
「フライディはしてって言われたら誰とでもキスするんじゃなかったの?」
「昔はね。今は逃げ出した恋人にしかしたくないけど」
 そう言ってチップはシーツごとキャットをベッドに抑え込み、噛みつくような荒っぽいキスで自分の言葉を証明した。

 チップはこの数日にこやかな表情と如才ない態度の裏で腹を立てどおしだった。キャットと連絡を取れないこと、公務を放り出せないこと、正義感に駆られたベスが立ちふさがること、そんな全てが腹立たしくてたまらなかった。

 でも荒っぽく始まったキスにキャットが腕を回して応え、デザートのように甘いキスに変わった頃には、不思議なことにチップの苛立ちはほぼ治まっていた。
 それはキャットの方も同じだったらしい。

 キスの後で、キャットが言い訳した。
「……私ね、ほんとにしてないって思ってたよ」
「そう?」
「だってフライディはキスする時こうするでしょ」
 本当にそう思っていたと主張するわりに見るからに元気を取り戻したキャットが、寝たまま自分の手をチップの頬に添えた。

 チップは声を立てて笑い、彼女の手をとると手のひらにキスをした。
「そう言えるだけの経験を君が持っててくれてよかった。そう、あれは迫られるのを止めてただけ。キスするときに肩に手をかけるのなんて、ティーンエイジの男の子か僕の不器用な弟くらいだよ」
 そう言ってチップが含み笑いをした。
「まあベスはエドで不満がないらしいから構わないけどさ。君も試してみる?」
 言うなりチップはキャットの両肩に手をかけてキスしようと迫ったので、キャットの方は声を立てて笑いながらシーツを蹴って暴れ、両手でチップの顎を全力で押し返してふざけたキスから逃れようとした。
 

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