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マリッジ・グリーン 3

 恋人の横顔を助手席で楽しく眺めていたチップはふと視線を窓の外に向け、道沿いに建てられた看板に目を走らせた。
 チップは今、行先と目的を知らされないままキャットの運転する車でどこかへ連れられていく最中だ。
 先頭を走る車のウィンカーが光ったのに続いて次の車のウィンカーが点滅し、キャットもまたウィンカーレバーを無言で押し下げた。
 一番前の車を運転しているのはエドで、助手席にはチップと同じようにして連れてこられたベスが乗っている。その後ろを走るのはエドの警護官が乗った車、しんがりを務めるのがキャットが運転するチップの車だ。

「――なるほど。これが君達の秘密か」

 三台の車がたどり着いたのは、何もない場所にぽつんと建った倉庫か体育館のような大きく窓のない建物。
 壁に描かれているのは白と黒の格子柄の旗と、フォーミュラカーを模した、躍動感あふれるマシンの絵。

「スリックトラックサーキットとはね」

 車を降りた皆は合流し、まずは警護官が先頭に立って建物の入口をくぐった。そのすぐ後に続くのはエドとキャットだ。
 残されたチップとベスは後に続いて良いものか迷い顔を見合わせた。
「何も聞くなと言われてついて来たけど、これから何が始まるのか知ってる、チップ?」
 おそらくベスは自分が今どこにいるのかも漠然としか分かっていないだろう。
 チップにとってもここは初めての場所だが、何が始まるかは予想がついていた。答える声が自然と弾んでいた。
「多分エドは僕と決闘をするつもりじゃないかな」
「決闘?!」
 驚いたベスがチップを見た。チップは人の悪そうな笑みを返す。
「分かりやすく言えば君にいいところを見せるためのイベントだね。貴婦人に勝利を捧げるのは騎士道物語の伝統だろう。エドに贈る袖かスカーフは持ってる?」
 からかわれたベスは怒った顔をしたが頬が赤く染まっていた。しかしすぐその顔を曇らせた。
「お願いだから危ないことはしないでね」
「君はまるでひよこを守る雌鶏みたいだよ、ベス。エドを臆病者チキンに育てるつもりかい?」
 チップはふざけた口調で、ベスの不安を笑い飛ばした。

 もしこれがレース用カートでの本格的な競争だったとしたらチップもエドを止めた。自分はともかく結婚式を控えたエドがやることじゃないだろうと。
 しかしスリックトラックなら話は別だ。チップも実際に走るのは初めてだがスポーツというより遊びの要素が多い競技の筈だ。
 どんなスポーツにも百パーセントの安全はないが、衣類の巻き込みなどにさえ注意すればまず怪我の心配はないだろう。
「二人とも、一緒に来て」
 真剣な顔をしたキャットに呼ばれ、チップとベスも皆に遅れて『本日貸切』と書かれた建物の入口をくぐった。

 一瞬、ゴムとオイル、それに排気ガスの匂いがした。
 入ってすぐの場所はスポーツカフェで、天井近くに取り付けられたスピーカーはレース用エンジンを噴かす甲高い音を周囲に響かせている。
 壁側には鍵つきロッカーがずらりと並び、一番奥の受付のカウンターではオフィシャルと書かれた帽子をかぶった男性が緊張した面持ちで立っていた。

 広い構内の残りほぼ全てがオーバルのサーキットコースで占められていた。
 路面はボウリングのレーンのように磨かれて光り、エンジンをデチューンしたカートは最初から互いにぶつかることを前提に緩衝材で囲まれ、運転席の背後を守るパイプフレームがカウルの上にはみ出していた。
 端的に言えば、ここは真剣に遊ぶためにつくられた場所だった。

「チップ。勝負しよう」
 エドが何の前置きもなしに言った。
「受けるよ。理由を訊いた方がいいか?」
「僕がチップに勝ちたいからだよ」
 そう言ったエドの、敵意ともとれる視線にチップはひるむどころか破顔して答えた。
「いいね、そういうの大好きだ。ベスが見てるからって手加減はしないからな」
「ううん。ベスは一緒に走るんだよ」
 兄弟の熱いやりとりにキャットが水を差す。
「私?!」
 婚約者の雄姿に見とれていたベスは、いきなり出た自分の名に驚いて声をあげた。
「そう。スリックトラックは台数が少ないとつまらないし、私がベスに勝ちたいから」
「私?」
 ベスは同じ言葉を繰り返す。エドは口をはさまず二人を見守る。そしてチップは――
「勝って、チップを略奪するの」
 ――キャットの決意を聞いて、身体を二つに折って笑い転げていた。

 ベスは未だに訳がわからないままでいた。
「どういうこと? 第一チップは私のものじゃないわよ」
「でも、婚約してた」
「形だけよ」
「それでもっ! 二人が婚約してたところに割り込んだのは私だから」
 チップは笑いすぎて滲んだ涙を手で拭い、キャットの肩に腕を回して会話に割り込んだ。
「ベス、僕からもお願いするよ。どうかキャットの挑戦を受けてやってくれないか。君に失うものはないだろう」
「ない、けど、テニスではいつもキャットが勝ってるじゃない?」
 今ここで勝負をする意味があるのか、とベスは首をひねる。
「勝てるもので挑戦したら駄目なんだよ。エドだってバイオリンで勝負すれば楽に勝てるけどそれはしないでしょ」
 口をとがらせて訴えるキャットの頬を、チップが軽くつまんだ。
「僕のフルートを聴いたこともないくせに決めつけるなよ」
「ぜえったいエドの方が上手だね。だってフライディにフルート吹いてって誰も言わないじゃない」
「その口は僕に憎まれ口を叩くより他の使い道はないのか。君こそフルートでも覚えたらどうだ?」
 目の前で始まったくだらない喧嘩に巻き込まれないよう一歩退いたベスは、いつの間にか横にきていた婚約者を見上げた。
「どういうことか分かる、エド?」
「分かるような分からないような……。僕がエリザベスを勝ち得たって自分を納得させたいんだって言ったら、キャットが私もベスに勝たなくちゃって言いだして、こんなことになっちゃったんだ」
「よく分からないけど何となく分かったわ」
 二人は目を合わせてうんうんと頷き合った。
 ベスが不意に微笑み、そっと自分の手をエドの方に伸ばす。
「よく分かったわ」
 そう囁いたベスは自分の指をエドの指に絡めてぎゅっと握った。
 エドがクラッカーなら、頭からぱーんと音をたてて紙吹雪と色とりどりのテープが飛び出しているところだった。

 チップとベスはスリックトラックが初めてなので、まず最初に練習の時間が取られた。
 コース自体は単純な楕円形でテクニカルなコーナーはひとつもない。しかし路面の摩擦抵抗が低いため雪道を走る時のように、アクセルを踏み込みすぎるとタイヤが空転してカートは思わぬ方向へ滑り出す。
 上級者になるとそれをうまく活用してアクセルのオンオフでコースを自在に走ることもできるのだが、さすがのチップも一周目は豪快にクラッシュしまくった。
 意外なことにベスの方がカートをまっすぐに走らせていた。ただしスピードは非常に遅い。
「そろそろいいかな?」
 チップがベスに声をかけた。
「いいわ。これ以上練習しても上手くなるとも思えないし」
「君にとっては何の得もない勝負だと思うけど、手を抜くなよ」
「言われなくても。あなたこそ本気で走ってよ」
「もちろんだよ。エドには僕の恋人を独占してこそこそと企んだ報いをうけさせてやる」
 チップがこぶしを作って自分の手のひらにぶつけた。それを聞いてふとベスが自分の婚約者を見やる。
 エドとキャットは非常に近い位置に立ち真剣な顔で話し合っていた。この二人は本当に仲がいい。

 ベスの心に、種火のような小さな緑の火が点った。
 

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