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ショートショート エドのお願い

 メルシエ王国の第四王子エドワードは兄たちに頭をぎゅうぎゅうに押さえられて育った。
 ゆえにその身分から他人が想像するような権力をかさにきた我が侭や傍若無人な振る舞いを押し通したことは過去の人生において一度もないし、多分これからもない。
 立場上自らの責任と義務において下々に命じることに慣れてはいるが、基本的にエドからの他人に対する声かけは命令ではなくお願いのかたちをとった。

 エドの妻、王子妃であるエリザベス王女もまた夫と同じように幼いころから王族としての責任と義務をわきまえて育った。また普段表に出すことはほとんどないが、彼女は思慮深くさまざまな事柄に対して自分の意見をもつ自立した……ストレートに言えば気の強い性格をしていた。
 彼女は物心ついた時からいとこの誰かと結婚することを期待されていたし本人もそのつもりで他の男性に目を向けることはなかったが、もしも彼女が一般の男性と交際をしていたとしたら、さまざまな事柄に関する決定権が自分にないことに苛立ちをつのらせ権力の奪い合いで不幸な結末を迎えていた可能性は大きかった。

 幸い、エドとベスはうまく噛み合ったお互いの性格と思いやりと愛情のおかげで幸せな結婚生活を送っていた。
 最初は双方の身内からも意外に思われたこの二人の組み合わせも、こうしてみればこれ以上ない最高のものだったと今では皆が納得していた。

 そんなエドがある晩ベスに言った。

「エリス、お願いがあるんだけど」
「なあに?」
 夫だけが使う呼び名で呼ばれたベスが笑みを浮かべて振り向くと、夫は何故か床に手と膝をついていた。
「腕立て伏せをするから、背中に乗ってくれない?」
「……チップの話なんて気にすることないのに」
 ベスの顔が曇った。

 その日の昼間、兄王子チップがエドに滔々とキャットの可愛らしさを自慢しながら、腕立て伏せをしていたら背中に乗って手伝ってくれたんだと語り「もし僕が女性一人の負荷に耐えられなかったらみっともないことになっただろうけどね」とさりげなく自分上げをしたのをベスも聞いていたのだった。

「できるかどうか、ちょっとやってみるだけだから」
 自分の夫がチップにいつも妙な対抗心を燃やす理由を知っているベスは、小さな溜息をついてから横乗りの鞍に乗る時のように淑やかに夫の背中に腰かけ、それでもまだ説得を試みた。
「エドは全然貧弱じゃないし、弓を構えた時の腕の――腕の――とにかく素敵よ」
 顔を赤くして夫を持ち上げるベスの言葉を、肝心のエドはほとんど聞いていなかった。

 背中に感じるぬくもりと柔らかい感触――――これは――――

 最初にベスにお願いをした時には意識していなかったが、この体勢は。

 エドはふと顔を横に向け、磨かれたマホガニーのキャビネットに映る自分と妻の姿を見た。

 見てしまった。

「エド!?」
 ベスはエドが片手を床から離して顔を押さえるのに気づき、ぱっと立ちあがった。
 耳まで真っ赤になったエドは鼻を押さえて体を起こし、あわてた様子で言った。
「ちょっとバスルームに」
「大丈夫!?」
 エドの指の間から見えた赤い血にベスは悲鳴を上げたが、エドは返事をせずそそくさとバスルームのドアの向こうに消えた。

 少ししてエドはまだ赤い顔に、いくらか水滴を残したまま戻ってきてベスに謝った。
「ごめん、やっぱり腕立て伏せはやめておく」
「そうよ。エドは背中に誰か載せて筋肉アピールなんかしなくてもいいわ! こんなことで腕を痛めたりしてエドのヴァイオリンが聞けなくなる方が嫌だもの!」
 強く同意するベスから目をそらしてエドが小声でつぶやいた。
「いや、腕とかじゃないんだけど……」
 エドのつぶやきを聞かずにベスが宣言した。
「こんなことはもう子供がお馬さんしてって言うまでしなくていいわ!」
「えっ!?」
「えっ!?」
「できたのっ!!?」
「将来の話よ!!」

 二人は付き合い始めたばかりの恋人のように真っ赤になり……どちらからともなく手をとりあった。

「そ、その」
「ええ」
「今すぐに子供が欲しいってわけじゃないんだけど」
「ええ」
「そろそろ寝ようか」
「ええ」
 ぎこちない二人は、噛み合わないようでしっかりと通じ合った会話を交わしながら寝室に足を向けた。

***

 ベスの朝は夫の身支度の気配から始まる。

 目を閉じたままシーツを首まで掛けなおしたベスの耳にチューニングの音が届く。
 一呼吸待てば部屋の中には軽やかなメロディが溢れだす。
 そこでベスは目を開けて、夫の一番素敵な姿から一日を始めるのだ。

 それにしても昨夜のエドは――――

 幸せに頬を染めたベスに、エドが弓越しの笑みを返す。

 待機していた侍従は、曲の終わりを待ってドアをノックし、朝食のワゴンを運んでくるだろう。
 それまでの間、朝ごとにベスは無言でエドと結婚した幸せをかみしめるのだ。
 
 最後の音と共に、二人だけの夜の余韻も静かに消えていった。
 楽器を下したエドが呼びかける。

「おはよう、エリス」
「おはよう、あなた」

 こうしてまた新しく素晴らしい一日が始まった。

end.(2015/01/03)

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