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行こう、城塞都市! その朝

 先に起きたチップが水を浴びる音が聞こえる。
 キャットは干し草ベッドの上でぱちりと目を開けた。身体を起こし、部屋を見回してから足元にある室内履きをつっかけて机の前まで行き、飲用ポーションのふたを開け少量を木のカップに注いで口にし、真剣な表情で発酵の具合を確かめた。

 バスルームのドアが開いて、平織りの布タオルで頭を拭くチップが現れた。
「おはよう、プレシャス・ワン。いいイベント日和だよ。よく眠れた?」
「うん、わりと。昨日のポーション、やっぱりパンの匂いになっちゃった」
「僕は起きた時、薔薇の香りがすると思ったけど」
「薔薇もするけどイースト臭がけっこう強い。最初にスターター入れた時はパン酵母と違う匂いだったけど、やっぱり発酵中は同じような匂いだね。天然酵母だとまた違うんだけど」
 そこまで言ってからキャットははっとした顔で恋人に駆け寄った。
「忘れてた。おはよう、フライディ」
 朝一番のふたりのキスは石鹸と薔薇とイーストの香りだった。

 今日はイベントの手伝いがあるため、キャットは朝から小姓姿だ。昨日のドレス姿の百倍動きやすい。
「今日の段取りは?」
「まずハーヴェイを迎えに行って一緒に朝食を摂りつつ今日の主役アダム少年と合流する」
「何時に待ち合わせ?」
「エメラルド・タブレットの食堂で最初の鐘から半鐘過ぎた頃」
「……これ私たちは遊びに来てるだけだからいいけど、中に住んでる人は待ち合わせけっこう大変じゃない?」
「分刻みのスケジュールが組まれないから楽だともいえる。それより会えなかった時の連絡が問題かな」
 話しながらふたりはフロントに鍵を預け、ハーヴェイが泊まるエメラルド・タブレットまで歩いて向かった。
「ねえ、今気づいたんだけどハーヴェイって朝の待ち合わせがあるのに一文無しになるまで賭けて道端に座ってたの?」
「そう。僕が怒った理由が理解できた?」
 キャットは頷いた。悪びれないハーヴェイがファイティングポーズで威嚇されたのも納得だ。

「おはようございます。食堂は最初の鐘で開きます。お好きな席でお待ちください」
 エメラルド・タブレットのフロントには愛想の良い女性が立っていた。ここはそういうロールプレイらしい。いや、これが本来の宿の姿だったか。

 食堂の中は、灯りがまだついていないが数人の客がばらばらに座って開くのを待っていた。チップとキャットも空いたテーブルの端に陣取る。
 誰も新聞や電子機器といった暇つぶしの道具を持っていないので、黙って座っているか、喋りながら座っているかの二種類の過ごし方しかない。昔の人はこういう時間を何をして過ごしていたんだろうかとキャットは少し不思議な気持ちになった。

 湯気があがる大きな鍋とたくさんの木製ボウルを用意する従業員たちを見ながら、キャットが小声で言った。
「こう言ったら悪いけど、私たちのホテルよりこっちの方がサービスがいい?」
「ああ、うん。こちらの方が高級だね。スタッフも多いし」
 何か理由がなければわざわざチップが安宿を選ぶとも思えず、キャットは目顔で続きを促した。
「せっかく泊まるんだから、なるべくここらしい宿を堪能したいかなと思って」
「堪能って、裸足で歩くとささくれが刺さりそうな床とか、シャワーヘッドも蛇口もついてないバスルームとかを?」
 問いかけるキャットの声が笑っていた。チップも笑いながら答える。
「楽しかっただろう? なにより僕はぜひ一度干し草ベッドで寝てみたかったんだ」
 キャットはとうとう声を立てて笑いだした。
「フライディ今までそんな機会なかっただろうしね。島でもスプリングマットレス使ってたから」
「君は寝てみたくなかった?」
 笑い続けるキャットにチップが訊いた。キャットは得意げな様子を隠そうとして失敗しながら答えた。
「ベッドじゃないけど、干し草の上で寝たことはあるよ。ほら、小さい頃にフランクのお父さんの農場に遊びに行ってたって前に話したでしょ。乗馬もそこで覚えたの」
「まさか君に先を越されていたなんて」
 チップがおおげさな身振りで顔を手で覆った。キャットは同情しなかった。

「おおっす」
 ハーヴェイがふたりのテーブルにやってきた。まだ寝起きらしく目が半開きになっている。
「おはよう、ハーヴェイ」
「飯もう食った?」
「まだこれから。そろそろ並ぼうか。君はここで座ってて」
 キャットに声をかけ、チップが席を立った。
「チップお前、食堂で列に並んで食うとかできんの?」
「僕が海軍にいたこと忘れてるだろう」
 会話しながら遠ざかっていくふたりを見送っていると、背後から声がかかった。
「おはよう、キャット」
 キャットは声の方に向き直り、見覚えのある姿に返事をかえした。
「あれ? サラ? おはよう?」
 昨日伝令使見習いで世話になったサラだった。チップの担当だったオスカーと初めてみる少年も一緒だ。
 キャットはチップから、昨日アダムの兄と偶然一緒になって会話をしたという話を聞いていたので事情を察して自分から挨拶をした。
「おはようございます。オスカーと、あなたがアダム? 私はチップのガールフレンドのキャット。今日はお手伝いさせてもらうね」
「よろしくお願いします」
 オスカーとアダム兄弟がキャットの差し出した手を握った。アダムの素早い握手がなんだか懐かない動物っぽくて、キャットはちょっと笑いそうになった。
「今、ハーヴェイとチップは朝食を取りに行ってる。三人は朝ごはんもう食べた?」
 オスカーが首を横に振って、アダムの肩に手をかけた。
「僕らも行ってくるよ。サラは待ってて」
 サラがキャットの向かいの椅子に座った。
「昨日ぶりー。なんか今日は面白いことやるんだって? オスカーに聞いて手伝いにきた」
「私も手伝いだけなんだ。サラが来てくれてよかった」
 そんな話をしているうちにチップとハーヴェイがオスカーたち兄弟と一緒に帰ってきた。向こうで一緒になったようだ。
「サラ、今日はよろしく。ハーヴェイ、こちらがサラ」
「ハーヴェイ、はじめまして。私はサラ」
 サラが差し出した手を、ハーヴェイが握った。が、さっきのアダムと同じくらいの素早さで握手の手を引き抜いたのでキャットは笑いそうになった。サラも笑っていた。
「ごめんね、強すぎた? 肉体労働してるからつい力入っちゃって」
 ハーヴェイが何か聞き取りにくい返事をつぶやいた。大丈夫と言っているらしい。
 とにかく全員が揃ったので、食事をしながら打合せをすることになった。

 気を取り直したハーヴェイが皆の顔を見回して宣言した。
「じゃあお宝探しのミーティング開始しようぜ」

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