行こう、城塞都市! 二日目の天気は
数学イベント二日目の朝。
目覚めたキャットの耳に届いたのは降りしきる雨の音だった。
彼女はベッドを降りて開かない窓に近づいた。ガラスの代わりの薄い革についた水滴を指ではじいて落としていると、外を小走りに過ぎる誰かのぱしゃぱしゃという濡れた足音が近づいてきて、そして遠ざかっていった。
「やっぱり降ってる。予報外れたらよかったのに」
それは半ばひとりごとのつもりだった言葉だったが、チップからはいつものように明解なレスポンスがあった。
「次回のイベントのことを考えたら、悪天候のケースも体験できるのはむしろいいことなんじゃないかな」
「そう言われるとそんな気がする」
説得されたキャットが、くるりと振り向いて笑顔で言った。
「おはよう、フライディ」
* * *
雨のせいもあってか今朝は、七、八人の客がロビーに溜まって食堂のオープンを待っていた。端の方では出かける客を目的地まで送る貸し傘屋が口上を述べている。
その間を抜けてミーティングのため宿を出ようとしたキャットとチップに、声がかけられた。
「チップ、ここに泊まってたの?」
「おはよう。すごーい、衣装まで中世風だ!」
女性のふたり連れが、チップに向かって手を振っていた。
宿の中だからか、ふたりはTシャツ姿だった。そのどこかで見たようなTシャツを着たふたりの内のひとりに、キャットは見覚えがあった。
「おはよう、クロエ、アヴァ。君たちもここの宿だったのか」
挨拶を返したチップが、キャットの肩に手を回して促し、ふたりに近づいた。
「紹介するよ。彼女は僕の恋人のキャット、今回のイベントのブローンでもある。キャット、こちらはクロエとアヴァ。ファインアファインのメンバーだ」
チップの紹介も紹介された三人の雰囲気も穏やかだったのは、値踏みをするような視線が交差しなかったからだろう。代わりに交わされたのはゆるやかな共感だ。
この中世風の宿ゾシモス・オブ・パノポリスにはかろうじてシャワーはあるがドライヤーやホットカーラーといったものは存在しない。入園時の持ち込みも認められていない。この場にいる三人の女性は、そんなお互いの事情をよく理解しほどほどの努力を認め合った。少なくともキャットはそのつもりだ。
とはいえアヴァと呼ばれた女性の、顔の両側に作った三つ編みを頭のてっぺんでひとつに束ねた謎の髪型に意識が向くのはキャットも自重しきれなかった。顔を洗う時に邪魔にならないよう上げたまま忘れているのではないのだろうか? クロエが注意していないということはわざとだと理解していいのだろうか?
キャットはアヴァの頭のてっぺんにぴょこんと立った三つ編みの先端から無理やり視線をはがし、クロエに笑顔を向けた。
「ハイ、クロエ。昨日会ったね」
「ハイ、キャット」
そう言ったクロエが思い出したように照れた様子を見せた。アヴァがそれを見とがめる。
「どうしたの、クロエ。もじもじして」
「話したでしょ、昨日の」
「あれのこと?」
アヴァがおかしそうに笑う。
話についてこられないチップに、アヴァが笑いながら説明した。
「『私が立つ場所を外側と定義する』ってやつ。クロエがやったんだって」
とたんにチップが人の悪そうな笑顔をうかべた。
「クロエがあたったのか。おめでとう。ポーズは?」
「やるわけない!」
クロエが叫び、残りのふたりがさらに笑った。今度はキャットがついていけなくなっているのに気付いて、チップが笑いながら説明した。
「あれは有名な数学ジョークのオチなんだよ。前にTシャツに採用するジョークを選ぶときにハーヴェイが悪乗りして、それぞれの学者に『一番格好いいポーズ』のイラストをつけて」
「社会学者がグラフを表すこういう」
「物理学者がフレミングの右手と左手の法則を」
アヴァとチップが片手を挙げたり両手を交差したりして周囲の注目を集めたのに気付き、話題を変えようとしたのかクロエが言い出した。
「チップはどこか出かけるんじゃなかったの?」
「そうだった、行かなきゃ。今日はふたりはどうするんだい?」
「もちろん参加。クロエも今日もやるって」
「じゃあまた後で」
ふたりに告げて、チップとキャットはガウンのフードを被りなおすと雨の降る通りに足を踏み出した。
「ごめんね、つい話し込んで」
「ううん。フライディ楽しそうだったし」
キャットは謝罪を流し、あの場で感じたことを素直に口にした。
「ファインアファインの人たちと話してる時のチップってリラックスしててなんだか見てても嬉しい。兄弟でいる時よりのびのびしてるかも」
「そうかな……そうかも」
少し驚いた声が返ってきた。フードを深く被ったチップの顔は見えない。
「兄弟でいる時はつい僕が皆を笑わせなきゃって張り切るけど、あの会ではだいたいハーヴェイが暴走するから叱られ役にならずにすむしね」
なんとなくチップの言う意味が分かってしまったキャットは、今日はいつもよりほんの少しチップに優しくしてあげようと思った。
叱られ役や道化、トリックスターなどその時によって言い方は違うが、チップが家族の中でそういう役割をあえて引き受けているのにはキャットも気付いていたので。
もちろんほとんどは演技ではなく本人が我慢できずにふざけているのも知っているから、優しくしてあげるのはほんのちょっぴりだけで大丈夫だ。
少しの沈黙をはさんで、チップがまた続けた。
「そもそも彼らはあまり人間に興味がないから一緒にいて楽っていうのもあるかな」
「そうなの?」
「会えば普段周囲と話せない数学の話をするので忙しいし。おそらくだけど、君と僕がいつどこで出会ったとかそういうことを質問してくる奴はいないと思うよ。君にどんな数が好きかって訊いてくる奴はいるかもしれないけど」
キャットが顔をしかめた気配に気付いたのだろうか。チップが恋人のフードの下を覗き込んで笑った。
「そんな顔するなよ。パン屋の一ダースって言っておけばあとは勝手に自分達でそれについて考えてくれるさ」
しかめっ面が続けられなくなったキャットが、不意に顔をほころばせた。
チップにはそれが、雨の中に射した一条の光のように感じられた。
「あのね──ここに一緒に来られてよかった。フライディの違うとこ、また見られた」
チップは太陽を追いかけるヒマワリのように、恋人の笑顔に相対した。
「君には普段から全部見せているよ?」
「私はフライディみたいに立体図形が得意ってわけじゃないから、回してみないと裏側が想像できないこともあるんだよ」
口をとがらせて言いつのる恋人の腰に片手を添え、片手を引き上げて雨の中でくるりと一回転させたチップが言った。
「ヒマワリの種はフィボナッチ数列で並んでるって知ってた?」
「それってフラタクルみたいなやつだっけ」
「言いたいことは分かるけど全然違う」
そんなチップのよく分からない上機嫌は、エメラルド・タブレットに着いてもずっと続いていた。
Copyright © P Is for Page, All Rights Reserved. 転載・配布・改変・剽窃・盗用禁止