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フライディと私シリーズ第二十四作
083◆マリッジ・グリーン (直接ジャンプ  1  2  3 
(原稿用紙約55枚/17100字/34分)
※遅れましたが2月2日に2、3アップしました!! 終わったー!!!
 
【 1 】
 
プロローグ
 
 週末。チップは幼い子供のように喜びと共に目覚める。
 目を開けて最初に映るのは愛しい人の寝顔。他に例えようのない幸せな景色だ。彼の恋人キャットは、ウォームアップなしで活動がはじめられる典型的朝型だ。(その代わり、夜眠くなるとまるで役に立たない)寝起きの顔が見られるタイミングは日の出と同じで、一瞬しかない。
「おはよう、プレシャス・ワン」
 誰よりも貴重で稀少な存在にそう呼びかけ、頬をくすぐって起こす。
 
 ぱちりと目を開けた恋人は、いつもの微笑みの代わりに真顔で言った。
「どうしてベスに優しくしなかったの?」
「うっ?!」
 チップはみぞおちを殴られたような声を漏らし、すぐ気を取り直した。
「見てた夢の続き? もう朝だよ」
「違う。婚約してた時」
 
 チップの朝の喜びはどこかへ消え去ってしまった。
 どうして女性はいつも、クローゼットで眠っていた服のような過去の出来事を不意に持ち出してくるのか。
 たぶんアダムもイブに同じように責められたんだろうな、とチップは思い、苦笑しながらやんわりと言い返した。
「君が思う優しさと僕が思う優しさが一致するとは限らない。僕が優しくしなかったと決めつけてかかるのは公平とはいえないんじゃない?」
 ごまかされるとでも思ったのか、キャットの声に責めるような響きが加わった。
「一度もデートしないでどうやって優しくできたの?」
 チップの方はごまかす余裕なんてない。
 寝起きにいきなり重たいハンマーをぶんぶんと振り回す恋人を意味のない言葉でなだめようとしたが、キャットの攻撃はとまらない。
「婚約中に私とキスしたし!」
 チップは思わず言い返した。
「あれはっ――君が頬にキスなんかするから」
「私のせいっ!?」
 キャットの瞳が怒りで色を変えた。
 
 何故朝からこんなことで責め立てられなければいけないのか。
 チップは訳がわからなくなった。頭が痛くなりそうだった。
「オッケー、分かった。過去において僕は婚約中にもかかわらず君にキスをした。まったくもって軽率だった。謝罪する。君が無邪気にも異性との距離を縮めすぎたことは確かに原因のひとつとしてあるが、男について何も知らなかった君にその責任を負わせることはできない。つまり僕が自制するべきだった。これに関しては全面的に僕が悪い。僕が考えなしに行動したせいで、十六歳の君に婚約者のいる男とキスしたという罪悪感を抱かせてしまったことは申し訳なく思ってる。だけどね」
 話しているうちにチップの中にも言われっぱなしではおさまらない気持ちがむくむくと膨らんできた。彼女より七つ上だとはいえ彼もまだ成熟した大人といえる歳ではない。
「僕とベスの婚約と解消に君の存在は全く影響していない。ベスへの接し方に関して君にこんな風に責められるいわれはない。もっとうまく立ち回れたら色んな人を傷つけずに済んだかもしれないけど、あれが当時の僕の精一杯だった」
 チップが自分を守るために使った盾はあまりに大きく堅かった。
 弾き飛ばされたキャットの顔を驚きと、そして苦痛がよぎる。
 とたんにチップは自分の言葉を後悔し、言葉の盾を放り出して細い身体をひきよせた。
「ああ、きつい言い方をしてごめん。泣かないで」
「泣いてない」
 伏せられたまぶたに、チップがキスを落とす。
 頑ななキャットの背中、肩甲骨の間を手のひらで温めながら、チップはキャットの頭のてっぺんに低い声で語りかけた。
「あの頃のことに関しては君に説明しきれていないことがまだある。いつか話せると思う。勝手な言い草だけどそれまで待って欲しい。それから……」
 チップの手がキャットの頬を包んだ。
「君とキスしたのは正しいことじゃなかったけど僕は後悔してない」
 手の下の体からふっと力が抜けたのをチップは感じた。少したってからキャットが顔を上げ、真面目な顔で呼びかけた。
「フライディ」
「なあに、ロビン」
「二度目は私が悪いんだよ。婚約者がいるって知っててキスしたんだから」
「君はキスがしたかったわけじゃない。自分の誇りを守りたかったのと、僕を慰めようとしただけだ」
 あの時の気持ちをぴたりと言い当てられてキャットが言い淀んだ。
「……それは、そうだけど」
「対する僕は君とキスがしたくてしたくてたまらなかった。さあ、罪はどちらにあったと思う?」
 人の悪そうな笑顔で覗きこまれ、キャットの瞳が再び色を変える。
 どちらからともなく身を寄せ合い、言葉の代わりに本物のキスを交わして諍いを脱ぎ捨てる。
 お互いの熱を感じながら、二人はさっきの出来事をそれぞれ胸にしまった。どんなラベルをつけてしまったかは、お互い分からないまま。
 
1.
 大学に近いカフェはエドのお気に入りだ。学生が通うには価格帯が高目、かつ女性客が好むケーキ類もあまり置いていないとあって、いつ行っても他の客や従業員に煩わされることなく一人の時間がもてる。警護官は入口近くの席で待機するので、少しばかり自分の世界に入り込んでも誰にも見とがめられない。そんな居心地の良い場所でエドがついひとりごとをつぶやいたのはある意味で仕方のないことだった。
「指がなあ」
「指がどうしたの?」
 エドは口から出そうになった心臓を無理やり呑みこんだ。もしかしたら出そうになったのは悲鳴だったかもしれないが、どちらであっても構わない。
 一瞬の硬直からさめるとエドは急いで書いたものを腕で隠そうとして、紅茶のカップに肘打ちをくらわせた。とっさにカップを上から掴んで止めたキャットが手のひらにはねた紅茶の熱さに短い悲鳴をあげ、振り払われた紅茶の雫がテーブルに流れ星のような軌跡を描く。
 混乱はほんの数秒で収まったが、エドとキャットは急いで従業員と警護官に手を振ってこちらに来る必要はないと知らせた。エドが立ったままのキャットに椅子を勧め、キャットが素早く従う。
 
 二人に集まっていた視線がほどけて散り、その場の空気が静まっていく。
 自分の手のひらをふーふーと吹いていたキャットが、少しすねた様子で横目をつかいながら訴えた。
「そんなにあわてなくても私、人が書いてるもの覗き込んだりしないよ」
 エドは素直に謝った。
「ごめん。末っ子だからつい癖で」
 とたんにキャットは顔をしかめた。責めるべき相手はエドの向こう側にいると悟ったらしい。
「そういうことしそうなお兄さん、一人しかいないよね」
「だいたいキャットの予想通りだよ」
 キャットは恋人の過去の悪行をまた一つ知らされ、溜息とともにこぼした。
「私ね、もし小さい頃からチップのこと知ってたらベスみたいに大嫌いになってたと思う」
「ああ……うん」
 エドが急に視線を泳がせた。
「どうしたのエド」
 エドが何度かためらう様子を見せてから、さっき隠そうとした紙をキャットに向けて差し出した。そこにはスポーツの名前がいくつか並んでいた。いくつかは線で消されている。さっきの指に関するつぶやきはどうやら一番下に書かれたアーチェリーについてのものだったらしい。
 
「何か始めるの?」
 エドはその問いに答える代わりに質問で返した。
「この中に、チップがやったことないものってない?」
「……理由を聞いてもいい?」
「チップに勝ちたいんだ」
「うん、その気持ちはすごくよく分かるよ」
「結婚式までに」
 エドの言葉に、キャットの動きが止まった。
 チップに勝ちたい気持ちはキャットの中に常にある。もちろん生まれた時から負け続けているエドの心中にはキャット以上にあるだろう。しかしはっきり言ってしまえば、結婚式まで二ヶ月を切ったこの時期に新しく何かで挑んで勝てる程度の相手だったら、もっと前にエドは勝利をもぎとっていた筈だ。
 
 エドが再び口を開くまで、少し間があった。
「エリザベスは今、すごく幸せだって言ってくれる」
「本当にいつもにこにこしてるしキラキラしてるよね」
 キャットはこの国で最初にできた友達であり魂のお姉ちゃんであるベスの最近の姿を目に浮かべて知らず微笑んでいた。しかしエドの顔に笑顔はなかった。
「今更って思われるかもしれないけど、チップと婚約してた時のエリザベスはすごく不幸そうだった。彼女がチップを嫌っていたのは事実だけど、それにしたってチップがもっと婚約者らしく振舞っていれば気持ちも変ったかもしれないのに、チップは何もしなかった。長い休暇の時だって会いにも行かなければ社交の場に一緒に出てもいない。確かに正式な婚約じゃなかったけど家族の他にも知っている人はいたし、その人たちはエリザベスがまるで放っておかれたところを見てる。僕はそのことに関して今もチップを許せない。彼女はもっと大事にする価値のある人だったのに。チップは婚約を受け容れておきながら彼女に花一輪すら贈ってないんだ」
 キャットは自分が今までにチップに贈られた抱えきれない大きさのアレンジから髪に差された通りすがりの花までを思い出し、やましさに顔を赤くして告白した。
「私ね。初めてベスからチップと一度もデートしたことないって聞いた時は嬉しかったの。ああ、本当に形だけの婚約だったんだって。私が会ったときはもうベスはエドの恋人だったし、二人が幸せそうだったからこれでいいんだって思ってた。ベスがチップと結婚しなくて済んでよかったって言うのも本気だと思うよ。でも、チップのことを知れば知るほど、私もどうしてチップがベスには優しくなかったんだろうって思うようになって――女の人が苦手だとかシャイな人ならともかく、チップならもっとアプローチできたと思うし、ベスが他の人にどう見られるかも分かってたと思うんだよね」
「うん。……チップが王位継承権を放棄することになって、婚約の予定も撤回されるって聞いた時はあんまり腹が立ったからチップを殴りに行った」
「エドが殴ったの!?」
 目を丸くしたキャットに、エドは肩をすくめてみせた。
「相手はチップだよ? 避けられた上に殴り返された」
「ああ、エド。可哀想」
 キャットの声には心からの同情がこもっていた。
 チップが負けるのは彼自身が負ける気になった時だけだと、キャットはよく知っている。しかも後で必ず『あの時は自分の意志で勝ちを譲ったのだ』という余裕をこれみよがしにみせつけるのでなお性質が悪い。
「とにかくそういうわけで僕は、封を開けてないプレゼントみたいに目の前に回ってきた婚約者をただ譲り受けたんじゃなく、チップからエリザベスを勝ち得たんだって自分を納得させたいんだよ。結婚前に。……こんな時期に何をやってるんだろうって自分でも思うけど、ベスと一緒にいてもチップのことが頭を離れないんだ」
「なんだかそれってマリッジ・ブルーみたいだね」
「むしろマリッジ・グリーンだね」
 エドが面白くなさそうに笑った。嫉妬は緑の目をした怪物だという。自覚はあるらしい。
 けれどパートナーを獲得するためにライバルを打ち倒す生物があれほど多く存在するのだ。エドの今の気持ちは本能的な欲求と言えるのではないのか。
「うん……やっぱりそうするべきだよね」
 キャットが何かを決意したように大きく頷いて言った。
「そこに書いてない、とっておきのがあるよ」
 
2.
 チップはキャットとの電話を切って、別れの挨拶で自然に浮かんだ笑顔を消して考えた。
 彼の恋人は秘密を抱えているらしい。カラーの花に似てまっすぐに伸びた彼女の心はすこしでも足元が歪むと全体が大きく傾く。嘘をつき通すことが苦手なキャットだから早晩その秘密は明らかになるだろうが、こういう風にチップに隠れてこそこそしている時は大抵なにか突拍子もないことを計画しているか……すでに実行に移している。チップは過去の経験からよく知っていた。それにこの前の突然の言い争いもある。チップ自身も経験があるが、身近な人の結婚でキャットは心が揺れているのかもしれない。
 そう、たぶん。
 一瞬考えてからチップは部屋を出て弟のドアをノックした。応えと同時にドアを開け、直球で問いかける。
「何か僕に隠してるだろう」
「えっ」
 顔をよぎるのは驚きとやましさ、それに――怒り? 反抗心?
 だいたいのところは読み取れた。今までも何度かあったことだが、キャットのたくらみの片棒を担いでいるのはエドだ。チップはもうそれだけで自分の機嫌が嵐の前の気圧計のようにぐっと低下したのを自覚した。
「言わなくてもよく分かっているだろうけど、キャットに毛筋一本でも傷をつけたらその時は覚悟しておけよ。新婚旅行先でシャワーが水になるとか靴にガムとかクリームに蜘蛛とか、ありとあらゆる不幸がお前にふりかかるからな。つまり僕がそうする」
「チップ、それはあんまり――
「僕はキャットの自主性を尊重する。彼女が何をしようと自由だ。だけどお前の自主性は尊重しないし権利も認めない、弁護士もつけない。分かったらキャットが無茶をしでかさないように祈れ」
 エドはあまりにも理不尽なチップの言い草に腹をたててもおかしくなかった。が、そうするかわりにどこか遠くを見ながら言った。
「ちょっとおかしな方向に進んでるけど、多分大丈夫だよ」
「どういうことだ」
「そのうち分かる」
 チップは自分の推理が正しいと証明され、さらに弟から頼りない保障を得たにもかかわらず、もやもやとした気持ちで自分の部屋へ戻ることになった。
 
3.
「手の届かない筈の人だったのに、チップの件で王位継承順位が繰り上がってベスと婚約できた。今度はベンまで王位継承権を放棄するかもしれないなんて話になってる。人生って何が起こるか分からないよね」
 打倒チップの仕込みの帰り、エドが今の気持ちをキャットに打ち明けていた。
 キャットが首を傾げた。
「あのね、私よく分かってないんだけど。どうしてそこで王位継承順位が出てくるの?」
「チップから聞いてない?」
 エドが不思議そうに訊き、キャットは首を横に振った。
「僕達の父が王太子になったのは兄のアンソニー、つまりベスのお父さんが王位継承権を放棄したからだっていうのは知ってるよね?」
「うん」
「その父が王位につく時、アンソニー伯父の方が王にふさわしいって言う人達が反対して色々あった。それで父と伯父は息子と娘を結婚させて伯父の血筋に王位継承権を取り戻させると約束することで、その人達を抑えた」
「ベスの意志は?!」
 思わず言ったキャットに、エドは答えた。
「王族には義務がある。それに応えるだけのものを生まれながらに与えられているから」
 キャットはエドの顔に浮かんだ表情を良く知っていた。同じものを恋人の顔の上で何度も見たことがあった。
 ベスのことが大好きな筈のエドが、ベスの可能性が狭められたことへの憤りを感じていない。……今初めてキャットは、エドもまた多くを与えられそれ以上を求められる王子の一人なのだと実感した。
「でもそれならエドでもよかったんじゃないの?」
「ベスより年下で王位継承順位も一番下の僕じゃ、先王の長子の娘であるベスと価値が釣り合わなかったんだよ」
「そんなっ」
「逆に王太子のアートとベスの結婚では伯父派の力が強くなりすぎるし年も離れすぎ――と、ごめん」
 とエドは、今挙げた二人と同じ七歳差の恋人をもつキャットに謝ってから続けた。
「だから第二王子か第三王子がベスにはふさわしかった。それくらいなら男子が生まれればその子の子孫が将来王位につく可能性も残る」
 キャットには兄弟がいないが、兄弟の価値に差があるなんて話は他所で聞いたことがない。
 そもそも王族という存在自体が現代の価値観とは相容れないものではあるのだが。
 キャットは、いつか聞いたチップの昔話を思い出していた。生まれた時からもののように第一、第二と番号を振られて自分の価値が番号に比例すると思い知らされ、義務と責任を両肩に乗せて育った彼らのことを思う。
 やはり無理だ。
 人並み以上に自由にのびのびと育ったキャットは、彼らに同情はできても理解にまで至らない。
「そういうのってさ」
「人を人とも思わない? 冷血? いいよ、思ったこと言って」
「ううん…………切なかったね」
 キャットの言葉に、エドがいつもと同じ、穏やかな笑みを浮かべた。
「そんなことないよ。ベスはもうすぐ僕と結婚する。弟が欲しかったけど代わりにキャットがいる」
 キャットがエドの肩を拳で殴る真似をして笑った。
「じゃあ後はチップに勝てば完璧だね」
 エドも自分の拳をキャットにぶつけて笑った。
「うん。頑張るよ」
 
「083◆マリッジ・グリーン 2」へ続く
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