フライディと私シリーズ番外編その8
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【 III 】
 
 カウンセラーは『無理に聞き出そうとせず、でも本人が話をしたくなった時にはちゃんと聞いてあげて下さい』と言った。そのアドバイスに従って、リーは淡々と食事の準備をして食べさせ、後は娘を自由にさせていた。キャットが人ごみにひるむ様子を見せたので、定期的なカウンセリングの他には無理に外出させようとせず、ただ夜中に車で行き先を決めないドライブに連れ出したりした。
 このカウンセリングも大使館の手配したもののひとつだった。カウンセラーによってスキルに大きく差がある云々といった説明に嘘はない筈だ。しかしリーもジャックも昨日生まれた訳ではない。きっとどんなにプライバシーが守られると保証されていても、キャットのカウンセリング結果は隣国のその筋に伝わるのだろうと思っていた。それでもその申し出を受けたのは、そのカウンセリングが最高であることに間違いはないからだった。
 
 しばらく経ったある日、キャットがCDを買いに行きたいと言い出し、リーが付き添って買い物に行った。
「考えていたより簡単だった」
 帰りの車中でキャットはぽつりと言い、それから毎日少しずつ外出する時間が増えていった。CDや小物、洋服など、キャットが出かけるたびに増えていった部屋の中の荷物はある日すべて大きな箱にまとめられた。
「お母さん、これ全部どこかにしまっておいて」
 昼食が出来たとキャットを部屋に呼びにいくと、ちょうど箱の蓋を閉めたキャットがさっぱりした表情で言った。
 
「それは――もう家でケーキビュッフェをしなくていいってことかしら」
 リーが入口に立ったままそう言うと、キャットは弾けるように笑い出した。キャットは色々な種類のケーキを家への土産にしていた。キャットはもうひとしきり笑ってから、不意に真顔になった。
「私のことで、お母さん達に迷惑かけていない?」
 迷惑をかけたか、ではなく、かけていないかと現在形で訊いたのは、無遠慮な取材や無許可の写真撮影のことだろう。つまり、そのことを自分から口にできるほどキャットが快復したということだ。
「いいえ。そういう意味では、あなたに『ベーカーズの娘』ということで迷惑をかけてない?」
「全然、そんなことないよ」
「よかったわ」
 首を振って否定するキャットに、リーが笑ってみせた。実際にはキャットにとって名の知れたベーカリーの娘であることが不利益をもたらしていることをリーは知っていた。『ベーカーズのお嬢さんですよね』と声をかけられたら、キャットはその呼びかけを無視するわけにはいかないからだ。同じ理由で両親と店に影響を及ぼしたことにキャットも気付いている筈だ。しかしお互いその事実を認めないのだから、謝罪を受け入れる余地はない。
 
 二人だけの昼食を済ませた後、キャットはテーブルについたまま白い線が入った自分の爪を見つめていた。栄養不足だった無人島生活の名残だった。それからひとりごとのように言った。
「……私と彼は、全然そんなんじゃなかったのにね」
 リーはあっさりとした言葉を返した。
「そうでしょうね」
「お母さん、あのね」
 一旦言葉を切った娘をリーは無理に促そうとせず、磁器のカップから紅茶を一口飲んだ。カジュアルな食事の時も口当たりのいい薄い磁器のカップを使うのがリーは好きだった。
「帰ってきた時に病院でお母さんが、『私の娘がいいえと言ったらそれはいいえの意味よ』って言ってくれたでしょ。あの時は分からなかったけど、お母さんってすごいって後から思ったの。私だったら自分の娘に言えるか分からない」
「そう? 私が言わなければジャックが言っていたでしょうね」 
「すごく嬉しかった」
 リーは目を伏せたままのキャットの手をテーブル越しに握った。
「ねえ、キャット。あなたを知らない人が何を言っても傷つく必要はないのよ」
「……きっと婚約者も、分かってくれてるよね」
 リーはその言葉に込められた娘の切ない思いを感じ取って眉をひそめたが、顔を上げないキャットは気付かなかった。
「私、何もできなくって恥ずかしかったな」
 リーが握る手に力をこめた。
「あなたは素直で快活で礼儀正しい、一緒にいて気持ちのいい娘よ。あの人はあなたと一緒で運が良かったわね。例えば、そう、ミセス・フォーンと一緒だったら、きっと毎日お天気の愚痴を聞かされてたに違いないわ」
 毎日ベーカリーに来てはどんな天気の日にも必ず愚痴を言って帰るお客の名を聞いて、キャットが声を立てて笑った。
「フライディ……彼と一緒だったらきっとミセス・フォーンはいらいらしたと思うよ。本当に嫌味なくらい明るいんだから。前にも話したかもしれないけど」
 いつの間にか顔を上げ明るい表情で話し始めた娘に相槌をうちながら、リーはあいまいな微笑を浮かべた。どうしようもない憤りを顔に出さないだけの分別はあった。
 
 『あれ』はどうして自分が『ロビンソン・クルーソー』になってこの子を『ガール・フライデー』にしてこきつかってくれなかったのかしら。それとも最初から自分が王子だって告白してうんと気取った喋り方で感じの悪い態度をとるとか、それが駄目なら軍隊式にしごくんでもよかったわ。
 確かにこの子は子どもっぽく見えただろうし年にしては考え方も幼いけれど、下僕のフライディなんて呼ばせてこんな風に信頼させてから実は王子だったと明かしたら、若い娘が自分を好きにならないわけがないってどうして解らなかったのかしら。『あれ』がもっと役立たずだったらよかったのよ。
 
 理不尽なことは自分でも分かっていた。おそらく彼がリーの望んだ態度のどれかをとっていたとしたら、リーは怒り狂っただろう。およそ無人島で一緒に過ごすならこれ以上望むべくもないような相手だったことに腹を立てることが間違っていることは分かっている。しかし怒りというのは理屈では割り切れないものだ。
 
 『あれ』が王子様で良かった点が少なくとも一つだけあるわ。もう二度と会うことがないってことよ。最後に心の中でそう吐き捨てたリーは、しかし間違っていた。
 
「明日の午後、少し外出をする」
 ジャックの言葉が少ないのはいつものことだ。食べ物を扱う作業中は必要最低限しか喋らないから、それが習慣になったのだと言う。物静かな夫が不意に見せる笑顔を愛するリーが、無口な夫を問いただすことはない。
「構わないかな?」
「ええ。もちろんよ、ジャック」
 そう答えたリーは不意に寒気を感じて身震いをした。自分のお墓の上を誰かが歩いたようだ。
 
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