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057◆王太子の結婚(3rd.セメスター・III)(101112131415)
 
【 15 】
 
 普段では考えられないくらいの笑顔を見せてはいても、やはりアートはアートだった。
 
「えっ! バルコニーでロイヤルキスしなかったの!?」
「そんなに驚くなんて、まだまだ君はアートのことを知らないな。僕達兄弟は全員しないと思ったから、賭けにならなかったんだ」
「そんなことで賭けないでよ」
 
 言いながらキャットは声を立てて笑った。言われてみればなんだかとてもアートらしかった。愛情表現が控え目なこのチップの長兄のことを、キャットは知れば知るほど好きになっていた。
 チップと二人で立ち聞きしてしまった、アートの『必要だからじゃない』という告白を思い出し、キャットは何故か不意に泣きたくなった。
 結婚式にまつわるあれこれでキャットはつい自分のことばかり考えてしまったけれど、本当にこの二人が結婚できて良かったと、心から思えた。
 
 画面にはフラワーガール達が映し出されていた。アンのいとこの娘だという二人は花嫁と似たデザインのドレスを着て、こちらも絵画から抜け出したような姿だった。
「この子達、可愛いっていうか綺麗だったよね」
「ああ、この二人ね」
 チップはそこで思い出し笑いを浮かべた。
「色々思うところがあったみたいで、アンに『王子様と結婚するにはどうすればいいのか』って真面目に訊いてたよ。アートがまた笑いもせずに十代の王子の名前を端から挙げていくから、聞いてるこっちは笑うのをこらえて大変だったよ」
「ひどい。女の子を笑ったりしたら失礼だよ」
「そういう君だってにやついてるじゃないか」
 チップにそう言われたキャットは元の顔に戻ろうとして失敗した。でもそれは決して二人を笑っていたわけではなかった。
 確か十二歳だという二人があんな立派な結婚式を間近で体験してしまっては、普通の式では物足りないと思っても不思議はない。本気で頑張れば、二人が王子様と結婚することだって絶対不可能とはいえないだろう。だって無人島で王子様と出会う偶然だって実際に起こるのだから、と思ったらキャットはつい顔をほころばせてしまったのだ。
 
 キャット自身は王子様との結婚や立派な結婚式に憧れはない。家族だけのこじんまりとした式でも、隣にチップがいれば充分だ。他に何もいらない。
 
 と思ったのに、チップのあの軍服姿を思い出したとたんキャットの全身から力が抜けた。
 
 キャットが夢見るのは、豪華な結婚式やバルコニーからの挨拶ではなくあの紺の儀礼服の袖に手をかけて歩く自分の姿だ。祭壇までまっすぐ歩き切る自信は全くない。でもきっとチップなら膝の力が入らないキャットを抱き上げて祭壇まで連れていってくれるだろう。
 想像するだけで血が沸いた。
 
 キャットがほうっと溜息をついて、チップの腕にもたれかかった。
「自分がカトリーヌおばあちゃんの血を引いてるってことが今回よく分かったよ」
「カトリーヌおばあちゃんって?」
「お父さんのお母さん。お父さんが若い頃に死んじゃったから私は話でしか聞いたことないけど、おじいちゃんの軍服姿に一目惚れだったんだって」
「君がそんなに軍服に弱いなら、軍時代の友人には会わせないようにしなきゃ。奴らは銃くらいじゃ追い払えないからな」
 チップの本気なのか冗談なのか分からない言葉を聞いて、キャットがいきなり腕の中で振り向いた。
「そうだっ! 私フライディにすごく腹立ててたんだ!」
「どうしたんだよ、急に怒り出して」
「フライディが変なこと教えたから! フィレンザまで知っててすっごく恥ずかしかったっ!」
「あのフレーズ?」
「そうだよ!」
 腹を立てるキャットに、チップが人の悪そうな微笑を返した。
「あれ、誰に使ったか僕には言わないつもりじゃなかったの?」
 
 キャットは一瞬きょとんとして、次の瞬間、真っ青になって口を閉じた。
 チップの笑顔は耳まで届きそうだった。
「そんな顔するなよ、ちゃんと分かってたよ。通りすがりの相手に口説かれたのなら君はそう言うはずだろう? 誰に口説かれたか言えない相手で『とっても素敵な人』ときたら、フィレンザのごく近くにいるドン・カルロしかいないだろう?」
 
 やっぱりチレニア海に沈んでおけばよかった。
 陸に上がった魚のように口をぱくぱくさせながらキャットが思いついたのはそれだけだった。
 
「気にするなよ。僕は気にしてないから」
「ごめん……なさい、黙ってて」
 キャットはやっとそれだけ口にすることができた。
「僕が正直の美徳を人に説くと思う? 何でも正直に言えばいいってもんじゃない。まだまだ子どもだな、ロビン」
 チップの言葉は慰めには聞こえなかったが、黙っていたことを責める調子ではなかった。そのせいでキャットは余計にいたたまれなくなった。
「フライディ……、分かってたのに、カルロの招待を受ける時にどうして賛成してくれたの?」
「それが君にとって一番いいと思ったから。実際そうだっただろ? 誰かに迫られてたのを、助けてもらったんだって?」
「何でそんなことまで知ってるのっ!?」
 チップが片目をつぶってみせた。
 
 何でも正直に言えばいいってもんじゃないというだけあって、チップはそう簡単に手の内を晒したりはしなかった。
「君を守るためなら手段は選ばないことにしてるんだ。ライバルに君を託したり、ちょっとしたイタリア語のフレーズを教えたりね」
 こうまで言われては、もうキャットが言えることはひとつしかなかった。
 
「あのね、フライディ」
「うん?」
「いつも守ってくれてありがとう」
「君のためじゃない。自分のためさ。僕は君がいないと生きていけないからね」
「私もフライディのこと守るからね」
「僕を守るための一番簡単な方法は、僕のライフラインである君自身を大切にすることだよ」
 
 二人が見ていた特別番組はコメンテーターの話や過去の映像を挟んでまだ続いていた。
 が、久しぶりにゆっくり会えた恋人同士はもう、いつでも見られる録画された番組への興味を失っていた。
 
* * *
 
 こうして、いくつかの謎やいくつかの思いを残したまま王太子の結婚にまつわる非日常の日々が終わり、普通の大学生としての日常がキャットに戻ってきた。
 
 ひとつ変わったことといえば、キャットの机の鍵のかかる引き出しに正装姿のチップの写真が収められたことだった。キャットがその写真を取り出して毎日眺めているのは誰にも言えない秘密だった。特にその写真の本人には死んでも知られたくなかった。
 それはうっとり見とれて楽しむためではなく、真剣な目的のための訓練なのだ。
 今のところ何の効果も上がっていないが、トレーニングを重ねればいつか閾値を越える日が来ることを、アスリートであるキャットはよく知っていた。
 
 キャットは今日も引き出しを開けて写真を取り出して眺め、彼に名前を呼ばれた時のことを思い出してみて……耐え切れずに切ない溜息をもらした。
 
 どうやらキャットがちゃんと自分の足で祭壇の前まで歩くためには、もっと多くの時間と訓練が必要らしかった。 
 
end.(2011/10/22)
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