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068◆遅れてきた人魚姫1011121314151617181920212223242526
 
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 チップは洋上では必ず閉じるハッチの扉も開けたまま、キャビンに飛び降りて叫んだ。
「ロビン!」
「フライディ、来ちゃ駄目っ!」
 キャットは自分の背中で寝室のドアを押さえ、ノブを握って叫び返した。寝室のドアは内側にしか鍵がない。
「そこから離れろっ!」
 チップは言い終えるより早くキャットのところへ辿りつき、キャットをドアからもぎ離して自分の背後へかばった。それからドアをノックすると声を張った。
「説明する気があるなら十数える間に両手を上げてゆっくり出て来い。こちらは銃を持っている。出てこないならドアを塞ぎ、海上警備隊に通報する。十、九……」
  八、と続ける前にドアのロックがカチリといった。
 
 ドアのすきまからまず女性のものらしい両手が、マジシャンのように何も持たないことを強調しながら現れた。その大げさな動作が逆に、どこかに種や仕掛けを隠しているのではないかという疑いを招いた。
 白く細い指に指輪はない。ネイルはしていないかしているとしてもごく淡い色で、短く切った爪は綺麗に整えてある。
 そこまで見て取ったキャットはふと、目の前の手を、日焼けして突き指の多い自分の手と比べていることに気付いた。
 ……まだどんな危険があるかも分からないのに、こんな小さなことが気になるなんて。
 そんな風にキャットがひそかに自己嫌悪に陥っている間にも、謎の人物は腕と肩を現していた。肩には無断借用したらしいバスルーム備え付けのタオルがかけられている。
 落ち着いた女性の声がした。上流階級らしいアクセントだ。
「もしほんの少しでも親切心の持ち合わせがあるなら、熱いシャワーをふるまって頂けると嬉しいんだけど」
 息をひそめたキャットと体をこわばらせたチップの前に、タオルを肩にかけ、海から上がってきたばかりといった水着姿の女性がゆっくりと顔を覗かせた。
 キャットはその顔に見覚えがあった。
「ウーマン・フライディ」
 
「知り合い?」
 思わずつぶやいたキャットに、チップは女性から目を離さず小声で訊いた。
「名前とかは知らない。けど、アートの結婚式の日にパウダールームで会った」
「後で詳しく聞かせて」
 ほんの短いやりとりだったが、それでチップの心は決まったらしい。
「分かった。まずはシャワーをどうぞ。その間に、あなたを海に投げ込むかどうか決めておく」
 
 とはいえ、チップは慎重だった。まず彼女を寝室の隅で待たせ、キャットに浴室からカミソリやスプレー缶など、武器になりそうなものを撤去させた。
 彼女が浴室のドアを閉めるのを二人で見送った後、チップはキャットを振り向いておどけた表情で言った。
「どうやら僕たちは平穏な日常を望めないらしい。とんでもない獲物を釣り上げたな、バディ」
「漂流事故……のわけないよね?」
「船に上がってすぐタオルを探しに寝室へ行くとか、あの落ち着き払った態度は計画的だろう。僕は突撃インタビューをしたくなるほどの秘密主義というわけじゃないし、いったい何のために密航を試みたのか、まるで見当がつかない」
 キャットは、チップがいちばんありそうな仮説を口にしなかったことに気付いていた。
 彼女はチップへの個人的な興味から、接触を試みたのではないか。もしかしてチップが一人でセイリングに来たと思って、船に上がったのでは?
 しかしこの仮説も、ウーマン・フライディから受ける印象にはそぐわなかった。
 そもそも、(チップは彼女の顔を知らないようだが)セキュリティチェックの厳しい王宮内のパウダールームで出会ったという事実からすれば、彼女はこんなリスクの高い方法をとらなくてもチップに会う伝手をもっていそうなものだ。
 チップと同じく、キャットにも彼女の目的は全く見当がつかなかった。
 
 難しい顔をして黙り込んだキャットに、チップがいつもの人の悪そうな笑みを向けた。
「他でもない僕たちのところに漂流者がやってきたからには、手厚くもてなしたいところだけどね。とにかく彼女がシャワーを出てからの話だ。……ところで彼女に貸せる着替えがある?」
「合うか分からないけど。シャツとかはフライディのがいいと思う」
「うん、そうだね。そこは君に任せる。その間に僕は近くに船がいないか確認してみる」
 チップはそう言って寝室を出て行った。キャットは、自分が見たのと同じものをチップが見たという当たり前のことに落ち込んだ。つまり――さっきの水着が描いていた、キャットのシャツには収まりきれない曲線のことで。
 
 しばらくしてキャットは、チップのシャツとハーフパンツに着替えた彼女を連れてキャビンに出た。つくりつけのソファに座っていたチップが、二人のために立ち上がった。
 チップは彼女には自分の向かい側に座るよう手で示し、キャットを自分の隣に招いた。
「まずは名前を聞かせてもらいたい」
「アリエルではどう?」
 そう言った彼女に、チップは露骨に嫌な顔を向けた。
「あなたの登場の仕方に、その名前は似合いすぎて不吉だ」
「ご心配なく、ナイフなんて隠し持ってないから」
 アンデルセンの童話をなぞった会話は、ほんの小手調べといったところだ。
 チップの横で黙って二人の会話を聞いていたキャットは、堂々と偽名を名乗るウーマン・フライディはやはりチップに似ていると思った。物語の主人公の名を騙るところまでそっくりだ。
「それで、アリエル、でも何でもいいが、あなたがこの船に上がった理由は?」
「ガールフレンドの前で聞きたい話ではないと思うけど」
「彼女の前で話せないような話なら僕も聞くつもりはない」
 チップのきっぱりした言葉に、キャットは胸が熱くなった。
 悪ふざけをしている時のチップは海に沈めたくなるくらい忌々しいが、こういう時のチップほど頼りになる人をキャットは他に知らない。
「曲解しないで。私は話せないんじゃないの。あなたが聞きたくないだろうと思う、って言ったのよ」
 
 キャットは何かを予感し、無意識にチップの腕に手を伸ばした。
 ウーマン・フライディはにこやかに言った。
 
「昔の約束を果たして頂きに来たの。私と結婚して下さる?」
 
 目の前に、特大の雷が落ちた。
 ウーマン・フライディは何か話し続けていたが、幻聴に耳をふさがれたキャットには何も聞こえなかった。
 
 チップは、腕にかけられたキャットの手を自分の手で握り、空いた腕でキャットの体を抱き寄せた。
 その体勢で、チップは先程の重大な問いかけに答えるかわりに言った。
「あなたは子どもの頃の口約束を本気にするような女性には見えませんが?」
 キャットの口から出たのは、ささやくような声だった。周囲が静かでなければチップにも聞こえないくらいの。
「本当に……?」
「してない」
 チップはキャットを見つめてきっぱり否定してみせた。なのに、さっきと違ってキャットの胸は熱くもならない。それどころか、背中が寒くてたまらなかった。無性に熱いシャワーが浴びたかった。しかし、今この場を離れてチップと彼女を二人きりにすることはできなかった。
 ウーマン・フライディはどこまでもにこやかだった。
「あら、契約のキスを交わしたわよ?」
 チップがぎくりと身じろぎしたのが、ぴったりと寄り添ったキャットに伝わってきた。キャットの視線に力がこもった。
「したのっ?」
「キスだけなら」
 キャットがかっとなって開けた口を素早く押さえ、チップは早口で一気に続けた。
「子どもの頃にはいろんな女の子としたから彼女としてないとは言い切れないけど婚約もプロポーズもしてないと誓える」
 キャットの視線は言葉より雄弁にチップを非難していた。
「つれないのね」
 二人の向かい側で、ウーマン・フライディが声を震わせた。
「やめて下さい」
 不機嫌な声でチップが止めた。ウーマンフライディは明らかに楽しそうだった。
 
「まあそのことはいいわ。忘れられていたのはちょっと切ないけれど、口約束だったしそのまま受けて頂けると思っていたわけじゃないから。その代わり、少しだけ手を貸して頂きたいの」
 
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