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068◆遅れてきた人魚姫1011121314151617181920212223242526
 
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 ドアを開けたチップが、開けたドアを押さえてトリクシーとキャットを先に通した。
 図書室は、チップの手配どおり無人だった。もともと基本的には非公開の場所だ。誰かの案内があるか、案内がなくても読みたい本の所在が分かる来客が利用することを前提としていたので、常勤の司書はいない。
 貴重書の類はここにはなかった。事典・辞書・統計のようなかさばる本と王室や王国に関する本、何かの機会に贈られた献本など――つまり、ここで暮らすチップ達家族にとって自室に置くほどの愛着はないが、読みたくなった時に手にとれる本の置き場所としてちょうどいい部屋だった。
 ……と聞くと倉庫のような場所を想像するかもしれないが、もちろんそんなことはない。
 
 常に引かれているカーテンで強い光が遮られた細長い部屋は、壁と垂直に置かれた本棚でレーキの歯、あるいは大文字のEをいくつも並べたかたちに区切られ、それぞれの空間ごとに座りやすい椅子と小さなテーブルが置かれて心地よい隠れ場所を作っていた。いくつかの窓の下には、より明るく見晴らしのいい空間を好む読み手のための席もあったし、重たい本を見やすいように支える書見台もあった。本棚の上に置かれたしおりを挟んだ本は、誰かの読みかけだ。思い出のよすがにと何代も前から置かれたままの本も、掃除のたびに埃を払われ、元通りの棚の上に戻されていた。
 
 読書家ではないキャットにも、何かしら感じるところはあったようだ。
「わぁ……、ここって隠れるには最適だね!」
 辺りを見回し、明るい声でそう言ったキャットは、食事中に飲んだワインとチェリー・ヒーリング(サクランボのリキュール)をたっぷりと含んだケーキで普段にもまして陽気だった。
 トリクシーは無言だった。目を細めるようにして見覚えのある景色を捜すのに忙しかった。
「この左側四つ目の窪みが、昨日の見取り図で『一番疑わしい』場所だ」
 ドアを閉めたチップが言った。
 
 最初の目当ての場所は、使用者の年齢を想定して小ぶりなソファが用意された、見ただけで微笑むような空間だった。手擦れした絵本と児童書が、歴代の王子王女たちがここで楽しく過ごした時間を物語っていた。
「楽しそうな場所だね」
「懐かしいなぁ。もっとも子どもの頃はこの甘ったるい場所が気に入らなくて、僕はわざわざ大人向けのソファまで移動して読んでたんたけど」
 仲よく会話する二人の横で、トリクシーが目を細めて自分のまわりをぐるりと眺めまわして言った。
「ここじゃない」
 その様子を見ていたチップが、急に厳しい顔になった。
 
「ミズ・モーガン。どうしてさっきからそんなしかめ面をしているのか、その理由を教えてくれないか?」
 もしその質問でトリクシーが動揺したとしても、顔には出ていなかった。
「昔は目が悪かったからよ。他のコーナーも見てくるわ」
「つまり、前にここに来た時は眼鏡をかけていなかったんだな」
 チップの追及にトリクシーは答えなかった。答えないのが答えだった。
 チップが声を少し大きくした。
「君は……そんな大事な情報を伝えずにっ」
「時間がなかったの」
 トリクシーは顔にも声にも感情を出さなかった。さらに何か言おうとしたチップの腕を、キャットがぎゅっと掴んだ。
「フライディ、時間ないって」
「時間がないのは僕じゃない、彼女だ」
「後で私が聞くから」
「君に言ってもしょうがない」
「でも聞くから」
「僕が君を愛してるからって、いつも何でも言うことをきくと思ったら間違いだぞ」
「分かってる」
「ロビン、やめろ。そんな可愛い顔をしても駄目だ。こら、酔ってるだろ」
 キャットが猫のようにまとわりついてチップを引きとめている間に、トリクシーは先に進んでいた。
 さっきと同じように目を細め、窪みを一か所ずつ廻っていく。
「ここよ」
 トリクシーが冷静に告げた。
 
「本当に?」
 そう言いながらキャットを肩にかついだチップが本棚の間の窪みを覗きこんだ時には、もうトリクシーは床に膝をついて本棚と床の間の前板をこぶしで叩いていた。こぶしの位置を少しずつずらしているので、意図は明らかだった。
 チップは時間を無駄にしなかった。キャットを床におろして「君はそっち」と告げ、自分は反対側の棚の前板を叩き始めた。
 キャットも二人の真似をして板をこぶしで叩いていったが、自分が何をしているか分かっていたかどうかは疑わしい。
 
 三人はそれぞれ自分のこぶしが板を叩く音に耳を澄ませているので会話はない。トリクシーほどの切実さはないチップ達も、どうやら実現しそうな宝探しに気持ちが盛り上がってきた。
「静かに」
 チップが声を上げた。
 女性二人のこぶしがぴたりと止まり、チップは望みどおりの沈黙を手に入れた。
「この奥に何かあるらしい」
 チップが周囲を叩いて、音の違いを二人に聴かせた。
「ミズ・モーガン、開け方は分かる?」
 トリクシーは首を横に振った。チップが自分の腕時計に目を走らせ、ぱっと立ち上がった。
「何か工具を取ってくる」
「壊しちゃうの?」
 追いかけるように訊いたキャットの声に片手だけ上げて、チップが早足で部屋を出て行った。
 
 チップが叩いてみせた棚板の周りをぐずぐずと押したり引いたりしているキャットの横で、トリクシーは再び本棚の前板に向き直り、作業を再開した。
「どうして? 見つかったんでしょう?」
「隠すところを見たわけじゃないし、隠し場所は一ヶ所とは限らないでしょう」
 キャットはそれを聞くと慌てて自分が担当していた本棚の前に戻り、再びこぶしを握った。
 
 静かな図書室に響くその音は、キツツキのように鋭く力強くはなく、例えれば早くドアを開けろと苛立った客のノックのようだった。それも不揃いとあっては心地よい音色とは言い難い。しかしそれは作業に集中している二人にとってはどうでもいいことだった。前板が終わってもまだ叩くべき壁やソファがあった。
 
 何かの気配を感じてキャットが振り向いたのと、本棚の向こうからの声はほぼ同時だった。
「キャット、何をしているんだ?」
「うわぁっ!」
 キャットは驚きの声を上げ、その場で飛び上がった。
 手前の本棚の陰にいたトリクシーもあわてて立ち上がり、ひと声叫んだ。
「ベネディクト王子!」
 
 ベンは何も言わず、二人をじっと見つめた。
 ベネディクト王子のファンならば感涙にむせぶシチュエーションだが、生憎と王子の前の二人の女性は嫌な汗をかいて黙りこむだけだった。
 無口な人の常として、ベンは相手が発言するまでどんなに間が空いても沈黙に耐えられる。それを知っているキャットは、助けを求めるようにドアの方を見た。チップが戻ってくる気配はなかった。
 
――この辺に隠し戸棚があるんじゃないかって、探してたの」
 ずいぶんと時間が経ってから、キャットがベンの質問に答えた。
「君たちは友達?」
「そうっ」
 キャットが全身で頷いた。
 
 その時、ベンがふっと片頬を緩めて笑った。
 
 途端にトリクシーはかみつくように言った。
「私はあなたの大ファンなんかじゃありませんっ」
 キャットは目を丸くして、二人を見比べた。
 
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