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068◆遅れてきた人魚姫1011121314151617181920212223242526
 
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 トリクシーが案内した本来の待ち合わせ場所で待つこと五分。
 エンジン付の黒いゴムボートでやってきたのは、キャットがメルシエ王宮のパウダールームで見かけた中年の女性だった。
 
 トリクシーは挨拶抜きで彼女に言った。
「メイ。セカンドプランに移るわ」
「承知しました」
 それからトリクシーはチップとキャットに言った。
「世話になったわね。無理を言って押しかけたのにもてなして下さってありがとう」
「無事に送り出せてほっとしたよ。あなたの態度は最初から最後まで全く感心しないが、もし本当に必要な時は、ちゃんと『お願い(プリーズ)』をつけて頼めばきいてあげないこともない」
 チップの言葉はいかにも彼らしくひねくれていた。
「次に来た時は、カフェ・ラ・ニュイのコーヒー試してね」
 キャットは真剣な顔で、それが一番大切なことのように言った。
 トリクシーは返事代わりにチップに軽く眉を上げ、キャットには少しだけ微笑んでみせた。そして借りていたライフジャケットを脱いで船尾にとりつけたはしごからボートに移り、手渡された別のライフジャケットを着た。
 
 お互いの船が少し離れてから、トリクシーは目で最後の挨拶を送り、ゴムボートが再びエンジンを始動させた。
 海面に近い背の低いボートは、乗っている二人の姿ごとたちまち見えなくなった。
 
「……これで終わりなのかな」
 名残りの引き波に揺れる船の上で、波の向こうにいる人を思いながらキャットがぽつりと言った。
 その時、キャットの肩にチップの手の重みが加わり、耳にはからかうような声が届いた。
「それじゃ面白くないだろう?」
 
 ぱっと振り返ったキャットは、チップが人の悪そうな微笑みを浮かべているのを見た。
「フライディ? 今なに考えてるのっ?」
「僕が望む未来のために目の前の草を少し刈っておこうかな、とか、そうしたら君のヒーローになれるかな、とか、色々」
「フライディはいつも私のヒーローだよ」
 何のためらいもなくそう言って見上げる恋人の顔を見つめたまま、チップがつぶやいた。
「しまった。やっぱりキャビンのある船で来るべきだった」
「どういう意味?」
「今教えるよ」
 チップがそう言った一分後にはキャットもチップの言葉を理解し、かつ心から同意していた。
 つまりキャビンのないモーターボートの上では、いくらお互いが努力をしても満足のいく抱擁を交わすのは難しい――特にライフジャケットを着たままでは、ということに。
「……ロケット並みのスピードで戻るぞ、ロビン」
「アイ、キャプテン」
 最高の笑顔で答えたキャットは、トリクシーを見送った時とは別人のようだった。
 
 同じ頃。ゴムボートの上では、ずっと無言だったトリクシーとメイがようやく短い会話を交わしたところだった。
「ところで、セカンドプランとは何でしょう」
「策が尽きたってこと」
「さようでございますか」
 メイは余計な口をきかない。そろそろ四十歳に近いが、老成した雰囲気は歳のせいではなく昔からだ。トリクシーがまだ子どもだった頃、『海の女王の娘』のなかでもっとも年若いものだった頃からついていた女官だ。
 
 『海の女王』は、チャンシリーをとりまく海を治めていると信じられている存在だ。いわゆる女神ではない。どちらかといえば祖霊に近い。伝説によれば難破した船乗りを海の女王の娘が助け、二人は結婚してこの群島の最初の住人になったといわれている。
 伝説のどこまでが真実なのか今はもう定かではないが、昔からこの島々が海の向こうからやってくる者を受け入れてきたことは確かだ。複雑な潮流と地形のおかげで大型船での侵攻が難しいチャンシリーは、迫害や戦乱から逃れてくる人々にとって心安らぐ故郷になり、さまざまな民族の血と文化と信仰がまじりあう土地になった。
 近代になり大国の支配を受けたものの、現在のチャンシリーは小さいながらも島国として独立し、元の土地では廃れた慣習がいまだ残る辺境として、未開発の自然が残るワイルドな観光地として、またここ数十年はタックスヘイブンとしても知られている。
 
 独立国家としての歴史は短いが、代々この群島の首長は「島の王」と呼ばれ、『海の女王の娘たち』といわれる始祖一族の女を娶った者の中から選ばれてきた。かつて王は海の女王が荒天や不漁をもたらす時にとりなしを願いに女王の許へ向かうという大事な役目も負っていた。(そして、ほとんどの場合、女王の許から戻ってくることはなかった)この時代、「島の王」になるのは権益を手にすると同時に我が身を捧げる覚悟のいるものだった。
 時代を下るにつれこの風習は穏やかにかたちを変え、今では年に一度、若木を組んだ人型に王の髪を納めて海に捧げる儀式としてのみ残っていた。
(トリクシーは子どもの頃この儀式に疑問を抱き、「王に髪が生えてない時はどうするの?」と周囲に訊いて回ったが、はっきりした回答は得られなかった。やがて儀式の原型を知り、たぶん髪がない時には爪や血などでも代わりになるのだろうと自分なりの答えを出した)
 
 このように海の女王と島の王のつながりのひとつは変容したものの、もう一つのつながりは昔のまま残っていた。
 それが『海の女王の娘たち』としるしの箱だった。
 かの一族に直系の女児が生まれると、しるしの箱を贈られる。島の王になるためには、娘たちの一人から贈られたしるしの箱を開けなければいけなかった。
 箱はトリックボックス(組木細工)になっていて、正しい手順を踏まなければ開けられないようになっていた。箱を贈られても開けることができなかったり、短気をおこして壊してしまえば王になる資格はない。海の女王が認めた人だけが開けられるとされていた。
 
 その話を初めて聞かされた時、トリクシーはぼやけた父の顔を記憶から呼び出そうと苦労しながら母に訊いた。
「お父さんは開けられなかったの?」
「そう」
 母はそう言って目を伏せた。トリクシーの両親はまだトリクシーが幼い頃に離婚し、父はトリクシーとしるしの箱を置いてチャンシリーを離れていた。
「もし王が死んで、それでも誰も箱を開けられなかったらどうなるの?」
「そういうことはおきないようになってるの」
 母の言葉を聞いて、現実的なトリクシーはきっと刀自(とじ)が目をつけた娘にこっそり開け方を教えるんだろうなと理解した。刀自は『海の女王の娘たち』の最年長、一族の長である枯れ木のような老婦人だ。
「こっちがお母さんので、こっちが私の?」
 トリクシーは目の前に二つ並んだ箱を見比べて言った。
「……疲れたから少し休むわ。自分の部屋に戻りなさい」
 母は不意にトリクシーに興味を失った。母の気まぐれはいつものことなので、トリクシーは素直に従った。
 
 名付け親のメルシエのエリザベス王女が亡くなり、葬儀に参列することになったトリクシーは、誰にも言わずに荷物に自分のしるしの箱を詰めた。その心理を説明するのは難しいが、ひとことでいえばトリクシーは『自分を一番信頼していた』ということだ。
 
 名づけ子たちは列を作って一人ずつ白い花を亡くなったエリザベス王女に捧げ、埋葬に立ち会った。それから、大人たちが集まって話をする間、子どもだけ集められて一緒に遊ぶようにと言われた。大人数、それも喪服を着たままできる遊びは限られている。誰からともなくかくれんぼが提案された。
 鬼が百まで数えている間に散り散りに逃げていく子どもたちから離れ、トリクシーは落ち着き払って近くを通った大人に声をかけた。
「図書室に連れて行って頂けませんか?」
 
 トリクシーが図書室に行ったのは、隠れるためではなかった。子ども同士で遊ぶなんてくだらないと思っただけだ。
 入口で案内役にお礼を言って別れ、一人になるつもりだったが、そううまくはいかなかった。
「どうしたの?」
 図書室の扉を開けた場所に立っていた少年が、トリクシーと案内役を見つけて訊いてきた。
「こちらのお嬢様が図書室に連れてきて欲しいとおっしゃったので」
「僕が案内しよう」
 少年の言葉に、案内役は恐縮しながらトリクシーを引き渡した。
「字は読める?」
 少年はそう言いながら親切に案内してくれたが、トリクシーは早く一人になりたかった。
「写真の本がみたいの」
「読めないなら、読んであげようか」
 八歳にもなって字が読めないと思われたことに腹を立てて、トリクシーは言い返した。
「字くらい読める。眼鏡がないだけ」
 実はトリクシーには近視と乱視があって普段は眼鏡をかけている。今日わざと眼鏡を忘れてきたのは、年頃の少女としてその姿を人に見られるのが嫌だったからだ。だから早く一人になりたかった。
 少年はトリクシーの機嫌を損ねたことに気付いたのだろう。静かに言い返した。
「君がどこの国から来たか分からなかったから訊いたんだ。言葉が違うといけないから」
 ほんの少しだけ、腹を立てたことを反省したトリクシーが答えた。
「チャンシリー」
 
 親切な少年は、本が読めないトリクシーのために絵本を読んでくれた。
「……二人はいつまでも幸せに暮らしました、おしまい」
 三番目の息子がドラゴンを倒してお姫様と王国の半分をもらったお伽噺に、トリクシーは疑義を訴えた。
「本当はドラゴンなんていなかったと思うわ。ナニーが言ってたもの。昔はお姫様と結婚した人が王様になれるのが当たり前だったんだって。きっとドラゴン退治のところは後から付け加えたのよ」
 少年はトリクシーの話に興味をもったらしかった。
「チャンシリーでは女の人が王を選ぶって本当?」
「そうよ。王になるにはしるしの箱を開けなくちゃいけないの」
「しるしの箱?」
 トリクシーは少しためらったが、親切な少年に少しばかりお礼をしたい気持ちと……貴重な品を見せびらかす誘惑に負けた。
「見たい?」
 少年の熱心な頷きに、トリクシーは手首にかけていたレティキュール(手さげ)から、小さな木箱を取り出した。トネリコの木で作られた、飾りのない白木の箱を手の中で転がしながら、少年はあちこちを観察した。
「どうやって開けるの?」
「海の女王が認めた人だけが開けられるの」
「うーん」
「ねえ、もう返して」
「分かった。ここだ」
 少年が、木箱の縁をなぞるように手を滑らせた。そのとたん、木箱は崩れ、いくつもの木片に変わった。
 
 トリクシーは真っ青になった。
 海の女王が認めた人だけが開けられる、そんなのはただの言い伝えだと思っていた。きっと刀自が選んだ娘に、開け方を教えているのだと。トリクシー自身も何度も開けようと試みていたから、簡単に開けられるものではないことはよく知っていた。
 目の前で起きた出来事は、トリクシーが信頼する世界のかたちを壊した。
 
――どうして勝手に開けたの、返してって言ったのにっ!」
 動揺したトリクシーはぽろぽろと涙をこぼしながら少年に抗議した。
「ごめん。でも」
「結婚のっ……贈り物なのにっ……」
「大丈夫だから、泣かないで」
 少年はトリクシーの手を握っていた。
「僕が君と結婚する」
「あなたが?」
 訊き返したトリクシーは、近づいてきた少年の顔に驚いて泣くのを忘れた。頬を少年の髪がかすめた。
 唇に何か柔らかいものが触れ、キスされたと気付いた。
 誓うよ、という声が聞こえた気がした。
 
 声も出ないトリクシーと気まずそうな目の少年が至近距離で見つめ合ったのは一瞬だった。
 図書室の扉が開く音がして、二人はぱっと距離をとった。
 ぼんやりとしたシルエットが近づいてきて、トリクシーのよく知る声で言った。
「トリクシー様、すぐ帰国するようにと、国王陛下からのご命令です」
 
 トリクシーは少年の方を向いた。少し離れた少年の表情はぼやけてよく見えなかった。
「お急ぎください」
 女官のメイがトリクシーを促した。
 トリクシーはそのまま、逃げるように図書室を後にした。 
 
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